直訳掲示板


 

氏名 E-mail
要旨
発言自動スペース&自動改行 入力した通りに表示
   
HomePageURL
    削除キー (記事削除時に使用)


■投稿前に必ず削除用パスワードを[半角英数]で入力して下さい.
■一度設定して投稿すれば30日間同じ削除キーが保存されます.
■内容を書き換えは[書き直し]で、削除は記事にチエックし一番下へ.
 



 

θελετεのこと

投稿日 12月4日(日)01時20分 投稿者 川口達也 [cb8a56-225.tiki.ne.jp] 削除
 

以下の文章ですが、文書の内容自体は間違っていないと思うのですが、翻訳が誤っているという結論をサポートする内容になっていないと思います。というのは、聖書のギリシャ語は、コイネーですから、θελετεは現在形の二人称複数であり、日本語の聖書翻訳は間違っていないということになるのではないでしょうか?θελειτεが出てこないのは、当然だということです(時代的に、もうそのようには使っていなかったということかな)。
ちなみに、θελετεは、Mt7:12,11:14,20:32,26:15,27:17,27:21,などに出てきます。これらは、命令形でないほうが自然な訳に思えるのですが、いかがでしょうか?

★問題点その1★ 命令法と直接法の語形問題...θελετε(セレーテ=願っている又は願え)の読み方です。


私はギリシャ語を読むのに、アナリテイカルやパソコンソフトを全く利用していませんが、おそらくそれらは 直接法、現在、能動態、2人称複数と分析しているかと思います。しかし、この語形は同時に、命令法と全く同形である事を見逃しておられる方が殆どです。 だから命令法ととるか直接法と取るかで意味が全く相違してしまうのです。

そしてその分別は訳者の技量に因る事です。

参考までに次の現在形の語形も存在する事をご存じない方が多いのには失望します。そう、この語形でこの点の誤解を避ける為にθελειτεとすると、こちらは明確に現在形となるのです。結論です。以上の理由からこの語は命令法、現在、能動態、2人称複数の可能性が限りなく高いのです。


θελειτεは新約聖書に使われていないのですが、わざわざ用例検索などかけなくとも、ギリシャ語動詞規則変化の基本原則でこちらが「直接法、現在、能動態、2人称複数」の基本形でθελετεは後代特にコイネー時代に主流となったその省略形であり本来は命令形の基本語形なのです。

 



 

レビ記13章14章70人訳やっとできました。

投稿日 12月3日(土)21時28分 投稿者 森脇章夫 [s138020.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

今週も様々なアクシデントがあって思う様に直訳が進みませんでしたが、今出来ている分をアップしました。まだまだ残っていますが今日は先週に引き続いて徹夜になります。では!!
 



 

信仰ではなく信頼が大切だと思います。

投稿日 12月1日(木)23時54分 投稿者 森脇章夫 [s138020.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

聖書には誤訳が沢山ある事をご存じだと思います。私はその中で最大の誤訳は「信仰」だと常々思っています。それは、私だけの意見ではありません。「抄訳聖書」という一風かわった翻訳が「いのちのことば社」から発売されていますが、その冒頭に在る緒言にも、そのことが詳しく取り上げられています。英訳のbelive(信仰)という訳語をギリシャ語ピステウオー(信頼)に当てはめる選択は誤っているという主張です。勿論著名なF.E.Sと言うイニシャルの米国の著名な神学者の意見ですが、私も全く同様に『信仰』言う日本語を聖書の翻訳に登場させる事はとんでもない問題を惹起する邪訳だ思っています。
こんな事をここに記したのは、まさしくその信仰と言う誤訳が引き起こしている問題が、いま佐々木さんが言われている「信仰」という言葉の認識に表れていると思うのです。
聖書の主張している最も大切な主張は、じつは信仰ではありません。そうではなく、『聖書や神様に対する信頼』なのです。信頼ですから問題は信頼する側には一切の条件は不要(無条件)ですが、信頼される側(神様と聖書)には『信頼に足る真実な信頼出来る実際の内容』が要請されているのです。
  当然この信仰の訳語の是非の論議は、新約聖書丈の誤訳では収まりません。旧約聖書でアブラハムが神様を信じたという原語のアマン(アーメン)もやはり誤訳です。これも『明確に信頼』と言う意味です。なぜこんな事をお話しするかもうお分かりでしょう。
そう聖書が言っているのは「信仰」という人間の信仰する側の感情や心情を聖書が要求しているのではないのです。
聖書が繰り返し私達に要求しているのは、「信仰などという人間の主観ではなく、聖書や神様に対する信頼」なのです。その違いの大きさがお判りして頂けるでしょうか?
そう信仰は、信仰する側 >> 信仰される側 と言う関係ですが、
信頼では逆に 信頼する側 << 信頼される側 という関係になります。
 これを極端に表現すると そう、
そう信仰は、 信仰する側 >> 0(無) が信仰の実体で、
信頼では逆に  (無)0 << 信頼される側 が信頼の実体という関係になります。『聖書の教えているのはこの後者の信頼』なのです。昔、教会学校にくる幼児に「信仰って何?』と質問したら『実際はそうではない事をそうだと信じる事です』と回答しました。この子供の意見通り日本語の信仰とは「鰯の頭も信心から」とあるように、本来信頼出来ない物を信じると言うのが正確な定義なのです。
聖書の要求しているのはこんないい加減ででたらめな「信仰」ではありません。
聖書の基本は「本当に真実(歴史上の史実)だからそれを信頼しなさい」と言う意味なのです。ですから信頼する側には一切の資質や条件は要求されません。そんな物は不要なのです。しかし、信頼される側には完全が要求されるのです。
神様を信じる(正確には信頼する)と言う事は神様の側に完全が要求されています。そしその神様にはご自身が信頼出来る物である事を無に等しい人間達に信頼出来る神を啓示することが要請されているのです。それゆえに全知全能の神は、その全能の力を駆使して信頼出来る啓示「ダバール=ロゴス= 実言葉を用いて、アマン=ピステオー=信頼に値する啓示された。と言う事が聖書が主張している最大の命題だと思います。
これを看過しては聖書に関する最初のボタンをかけ違えてしまい、聖書の読み方の前提が崩れてしまいます。その結果付随する、聖書翻訳やその結果構築される全神学は無為に帰すのです。これを認めないと聖書や神様に関する、最初の一歩が踏み出せません。
さて、もう一点だけ反論させて頂きます。私が1974年 韓国で開かれた民族総福音化をテーマに国会議事堂前の広大なヨイド広場で行われたエクスプロ'74に日本から参加した時の事です。宿泊していたミヨンドンの韓国キャンパスクルセードの本部ビルからバスで会場入りをしました。会場に向かう4車線の道路の両側の歩道は会場に向かう人々で一杯でした。そしてハンガンを渡る橋は大渋滞でした。聞けば一日中このような状態と言う事でした。会場のヨイド広場は端から端まで見渡す限りの人でした。この会場は縦2キロ横1キロあり、有事には航空機が発着出来る広さであるときき驚きました。そしてその会場に入った入場者総数は200万人であったと発表が有りました。出エジプトに参加したと言われる全難民と同数でした。確かに200万人はものすごい人数ですがまとまればこの程度なの感嘆しました。そして、その翌日、復光節の大統領婦人の陸女子の暗殺事件が起きました。戒厳令が解かれて漸く私達日本からの参加者が会場に尽きました。その数約3000名でした。その日は日本のラジオ牧師羽鳥 明さんが説教でしたが、その中で韓国に介する日本国の罪をわびられて、私達は豪雨のなか、会場の前方に移動して、講壇の正面で200万人の韓国の方々に向かって土下座し戦争中の非道をお詫びしました。そのために群衆の中を移動しましたが人は詰まっている様でも結構移動には手間取りませんでした。確かに出エジプトには200万人の人間の他にも家畜や牛車がっあって、移動は大変だったと思いますが、ご心配されるほどの混乱は生じないかと思います。
 



 

曖昧との、ご指摘謹んでお受けいたします。

投稿日 12月1日(木)20時30分 投稿者 佐々木次夫 [i60-46-226-172.s05.a011.ap.plala.or.jp] 削除
 

曖昧、玉虫色、中途半端、どっちつかず、八方美人こういった批判は保守派の立場からだけでなく批評学の立場からも出されるでしょう。甘んじて受けます。聖書の記事は歴史的事実か否か、この手の話しになると双方激しい議論になり、いきおいゼロか100か、オールオアナッシングになってしまいます。果たして私たちは「神聖にしてこれ、冒すべからず」あるいは「俗にしてこれ、切り刻むべし」の2チャンネルしか選べないのでしょうか?両陣営の不毛の戦いは不幸なことです。どんな不幸でしょうか、両陣営の不幸でしょうか?いいえ、特別神学教育をうけず特別考古学等の教育も受けないどこにでもいる一般人、ただ聖書を教養の書として読みたい、聖書から人生訓を見出したいと考えている「普通」の人の不幸です。
両極端の意見に二の足を踏み結局読みこなせず本棚に飾って眺めてる不幸です。聖書は全部史実で全部正しいと声だかに叫べば叫ぶほど「引いてしまう」うのが一般の心情です。一方で小難しいJだかPだか訳のわからないのにも引いてしまうでしょう。聖書に何か期待して聖書に近づく人たちにこそ第3のチャンネルを提供してアドバイスが出来ると自負しております。ニュートラルな席にひとまず落ち着き、ここに飽きたらづに森脇さんの方に進みたいなら喜んで送ってあげたいし、逆の場合もまたしかりです。
さて、ダバールが二つの意味合いがあるのは承知しております。ダバールとロゴスが同じ「ことば」であるというのも異存はさほどありません。ヨハネ福音書の1章1節のヘブライ語訳新約聖書にもロゴスに相当する単語にダバールが使われています。(大英聖書協会.ヘブライ語旧.新約聖書)しかしどうして真実ならば史実でなければならない、という意見は皆目わかりません。また一部が否定されたら全部が否定されるというのも理解しかねます。りっぱな森に1%の枯れ木があれば森全部の価値がなくなるのですか?聖書というりっぱな重箱にご飯と惣菜がしっかりと入っていれば重箱の端が少々はげていても十分食事が楽しめるのではないですか。
 根室半島からカムチャッカ半島にかけて千島列島があります。だれが「千島」と名づけたかは知りません、しかしその意思意図は十分に読み取れます。千もあるかと見間違えるほど島々が連なっている列島なんだと。では事実(史実)はどうでしょうか、実は30前後しか島はないんです。「千」と記されているから千の島々がなければデタラメなんでしょうか?ウソなのでしょうか、いいえ名づけ親は「千」という言葉に真実を託しているのです。そして受ける側がその真実を受取るのです。真実であれば史実(事実)でなければならないというのは極端であり現代人の歴史観を聖書の時代に押し付けようとする誤りなのです。60万人という数字はそのまま受取るのではなく、著者は、かようにも多くの民を神は贖い出し、かようにも多くの民をパロの追っ手から救い出し、かようにも多くの民を荒野で養い、かようにも多くの民に神は法を与えたと言いたいのです。この場合60万人というのは象徴であり別に600万人であってもいいわけです。
さてこの60万人について私の考えです。20歳以上で軍務につく男子が60万人と言う事は超控えめに見て200万人以上、イスラエル人は子沢山でありエジプトの支配者たちもそれに危惧を抱いたわけですから全体で300万人は下らないかと思われます。更に家畜がいたわけです。シナイ半島にそれを許容する余地はありません。ある学者がシナイ半島の水の含有量はここ5000年間変っておらず、そこから導きされる人口は5000人が限度だそうです。肥沃なる三日月地帯の最南西に位置するカナン.ヨルダン渓谷が今より肥沃だったのは仰るとおりです。
さて300万人(五人家族で60万家族)が紅海(葦の海.苦湖の湿地帯)を渡るとしますとどうなるでしょうか、五人編隊で家族家畜家財そしてエジプトからの分捕り物を携えて60万編隊になります。間隔を1Mとって60万M.つまり600KMになります。最後尾が渡るころ最先頭は600Kのかなたにいる?カナンを通り越してレバノン.トルコの方まで行ってしまいませんか。もっと深刻なのは時間です。1分間隔で60万編隊が渡りきるには60万分.1万時間.13ヶ月.414日(24Hフル稼働で)かかる計算になります。とっくのとうにパロの軍勢に追いつかれエジプトに押し戻されませんか。数字を無理にあてはめるとどうしても無理がでるのです。40.666.144000.480といった数字は象徴ですからそのまま受取るものではありません。
結局のところ「聖書史実説」も「聖書非史実説」「聖書真実説」全て仮説であり、己が信じるところを進むしかありません。これはある面「信仰」だと言えるでしょう。
 



 

幕屋!アップが不十分でお恥ずかしい次第ですが!!

投稿日 11月30日(水)12時02分 投稿者 森脇章夫 [s138020.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

佐々木さんのスタンスは了解しました。「原理主義にあらず、破壊主義にあらずです。聖書の核には確かに歴史的事実があり、それは決してフィクションではありません。しかし同時にすべて歴史的事実というのでもありません。」と言う曖昧模糊とした玉虫の様な御立場ですね。しかし、せっかくの御立場ですかその立場には問題があります。それは聖書原典の主張の理解です。
それはダバールと言うヘブル語の理解、そして新約聖書のロゴスという言葉の理解に関わる問題で、「聖書の根幹に大きな問題を惹起するお考えだ」と私は判断します。説明しましょう。
これは「聖書の主張の基本スタンス」をどう理解しているのか」と言う根本問題を惹起します。ご存じかと思いますか旧約聖書ではダバール、この単語はご存じの通り全く同じ単語であるのに全く別の意味「出来事や事柄」をも表します。
 この点に関して佐々木様が意義を申されるのは当然、予期します。オックスフオードで出している最も権威在るヘブル語レキシコンBDBはこれを別の単語に分別しています。しかし、私は同単語と見なしています。このダバールと言う言葉の意味は、「事実と符合する場合の言葉」ですから「このダバールはある時は『言葉』と言う意味と同時にその言葉が指し示している『事柄』としても訳出されるのは当然」というのが私の理解です。これを別の言葉と認識している所にBDBの限界を感じます。対局にあるゲッセニウスのレキシコン(アドマンズより出版)も私と同様に、同一単語として記しています。やはりこれはヘブル語理解の実力の差が表れているのだと思います。
 さらに:この点を説明します。旧約聖書において「言葉」の代表的シノニムスには、アマール ダバール ミラーの3つがあります。アマールは「言った」で新約では レーマ(話された言葉)に該当します。 ダバールは「実言」で新約ではロゴス、そして ミラーは「虚言」で新約ではムソスに該当します。それらは聖書をコンコルダンスを用いて言葉の用例を分析すると明確に区分されて居る事が分かります。私の大好きなイソップ寓話の寓話と訳されているのもこのムソスで「虚言」といういみで、イソップ寓話には対応する事実は存在しませんが、そのことをムソス「虚言」としてギリシャ語では明確に表示しているのです。
  そのことを踏まえて、もし聖書が最も多く用いているダバールとロゴスは「虚言」の反対の「実言」と言う意味ですう。と言う事はこの言葉「ロゴス」と言う単語が使われている限り、その言葉には必ず言葉に対応する「出来事」が史実として存在しなければなりません。もし、歴史上にその事実が存在しないと結論されるなら、そのダバール又はロゴスを用いて聖書に記されてある以上、その聖書その物の信憑性が疑われる事になります。聖書がその歴史的事実の目撃証言(ヘブル語エド、ギリシャ語マルテュリオー)というスタンスは瓦解し手しまうのです。
 もし、その様なスタンスの聖書に事実に符合しない記載が在ったら、(聖書は全ての場合に「ダバール」または「ロゴス」と言う言葉を使っていますので。)聖書には「でたらめ」が書いてあると言う事にならないでしょうか。そこにもし、人間の創作や想像による記述がなされていたとしたなら「聖書なんて全く信用出来ない」と言う結論を導き出してしまうのです。
  聖書がダバールやロゴスとして主張している部分は、以上の理由で史実でなけれはならないのです。もし、この聖書の明確な主張が否定されると問題は一部ではなく聖書全体に波及する問題となります。もしこの点が否定されるとその結果、聖書全体の記述はでたらめと結論されざるを得なくなるのです。
 佐々木さんが出エジプトの人数に言われるように5千人だとすると「男だけで60万人(出エ38章26節、他)」という明確な聖書の主張が崩される事になります。そしてその主張は聖書はロゴスとして記録していますので、それが否定されると、結果的に聖書全体が否定されてしまうのです。
 さらに、この点をより具体的にお話ししましょう。この出38書26節の前後に在る60万人の登録人数と、その時にその献げられた一人当たりの銀の重さ(半シケルの5.7g)に人数(603550)を掛けるとその合計は3440235gできっちり100タラント1775シケルになります。そしてこの献げられた銀を用いて幕屋は建設されているのです。この重さが否定されると私の論文の多くの計算はこの数値を前提にすべて割り出されました。その結果幕屋全体のたの数値とも符合して全体が見事に調和しているのです。もしこの銀の数値が否定されると私の論文全体にその影響は波及し、おそらく「幕屋は実在しなたかった」という結論を私は導き出さざるを得なかったでしょう。
 その点から見ても、聖書は本気で出エジプトの人数を男だけで60万人としている事を疑う事は出来ません。さて、聖書の記述から現実の実際に話をむけましょう。言及された通り現在のシナイ半島に200万人を超える難民を養う自然は皆無である事は私も十分知っています。しかし、紀元前11世紀(私は1440年の早期説を取ります。)のシナイ半島がどうであったかは明確な資料はありません。ソロモン神殿の建設に使われたレバノン杉の大森林や、ダビデの息子アブシャロムの反逆時のヨルダン渓谷の密林での戦闘の記述やライオンなどの動植物の記述を見る時、現在のパレスチナと余りにかけ離れている豊かな自然の描写であることは自明です。それはパレスチナだけに止まりません。当時の周辺諸国の考古学的調査結果による都市の壮大さなどと比較検討する時、時代をさかのぼるほどシナイ半島やパレスチナには、「当時は現在と比較出来ない、より豊かな自然が在った」事は否定出来ないと思います。
 さらにその周辺のエジプト周辺やメソポタミヤにも、紀元前2千年期には豊かな自然があり、文明の発展していました。しかし、豊かな自然が失われると同時に、その地に存在した文明も消失してしまったのは周知の事実です。
 さらに今日の日本とシナイ半島を比較してみましょう。シナイ半島は今日の日本の四国(人口約415万人)の約3倍の面積が在ると言われています。一方現在のシナイ半島は面積(61,000 km 2)で四国(18788 km 2)の約3倍に相当します。とすると「出エジプトの難民時代には、シナイ半島は四国の3倍の面積で四国の約半分の200万人程の人口を養っていた」という事になります。言い換えると「出エジプトの時代のシナイ半島の人口比の土地の負荷は現在の四国の6分の一」と言う事です。
 以上の事を総合的に勘案して考えると聖書の記録は現在よりもかなり有利である事が分かります。しかし、どうひいき目に見ても結論は「当時の自然が現在よりも少しぐらいは豊かであったにしてもまあ200万人が生活するのは非常に厳しい」という事実に変わりはありません。
  そして、その事実をすべて踏まえて、「聖書の記述の真実性に本当に問題があるのか」という事に目を向けましょう。よく聖書を読んでください。200万人は出エジプトの後、どうなったのでしょうか? 聖書は厳しい現実を記しています。聖書が明確に記しているのは200万人が荒野で生活したと言っているのではありません。聖書が言っているのは、「その荒野で20歳以上のものは記された通り2名以外は悉く死に絶えた」と言う記録です。(民数記26章62節)当然でしょう。どのような状態で出エジプトの民がどれぐらいの割合で死んだのかは記されていません。しかし、明確に聖書は彼らは悉く荒野で死に絶えたと記しています。とすればそれで当然で、聖書その記録を疑う根拠にはなり得ないのではないでしょうか。
  そしてもう一つの問題が生じます。ではどうして40年の放浪の末期にはまた男だけで約60万人だったと記されているのでしょうか? 
 その回答は次の様に考えてはいかがでしょうか。
当然、難民の常として、シナイの荒野の悲惨な40年の期間には死亡数の増大と同時に、出産数の異常な増大が見られたでしょう。多くのものが死に絶えたでしょうが、同時に多くのものが生まれたのではないでしょうか。もちろん、その中でも死者が多くなるのは当たり前です。40年間の荒野の放浪ではおそらく、イスラエル難民の人口は半減、いやそれ以下になったでしょう。
 そして生まれる子供達も次から次へと餓死した事でしょう。その悲しみに直面していた荒野の40年間の殆どの期間に対して聖書はほぼ沈黙しています。(民数記に記されているのは荒野の40年の期間の最初の2年間と最後の2年間の僅か4年間で16章から18章の36年間に関する記録は皆無です。)しかし、シナイ半島の放浪の後半には彼らの生活事情は大幅に改善されました。シナイの荒野を出てモアブの草原地帯やアモリ人達の居留地を侵略し生活が安定した事を聖書は記しています。パレスチナにも土地を略取したシナイ半島難民時代の末期には爆発的に人口が増加し、再度出エジプト当初の規模を回復した(民数記26章51節)のはごく自然の成り行きかと思います。
  以上の事から出エジプトの人数200万人の記載は聖書の記述の信憑性を疑う根拠にはなり得ないと認識します。
 さて次に、筆記の問題です。当時にも文字はありました。オストラカに残されている楔形文字やフエニキヤ文字やエジプトの線文字なと全てアルファベットの表音文字ですからどんな言葉でも、そのまま簡単に記録出来たでしょう。また記録媒体には幕屋に大量に使われたなめし革はそのままで最高のメデイヤになった事と思います。
  最後に、「物事にはおおよそ発展進化があります。」と言う事ですがこの点も敢えて反論させていただきたく思います。全ての発展を見れば自明の事ですが、資源の枯渇がかならずその背景に有ります。ガソリンという化石燃料の枯渇によるコストの増大がハイブリッド車を生み出し、更なる資源の高騰がやがて燃料電池車や電気自動車を生み出したのです。もし縄文時代の狩猟経済の川の魚が枯渇しなかったら、丸木舟は不要であったでしょう。そして沿岸の漁業資源が枯渇しなかったら漁船や遠洋漁業や魚群探知機は不要であったでしょう。今日の発展した高度な軍備や科学技術を持つ高度な情報社会は、そのような観点から見る時、物質資源の枯渇が原因であって、けっして進化や発展が先に在った訳ではありません。そしてますます資源は不足し更なる技術の進化が止めどなく必要とされるだけの事ではないでしょうか。
  佐々木さんの反論を楽しみにしております。
 



 

幕屋HP拝見しました

投稿日 11月29日(火)20時18分 投稿者 佐々木次夫 [] 削除
 

じっくり拝見しました。いや、たいしたものです。幕屋規定など注意をもって読んでいなかったというのが正直なところです。幕屋に関して聞きたいことがあれば質問させていただきます。批評学に一石を投じるかもしれません。
五書の作者がヨシュアとのこと、確かに可能性はあります。出エジプト時からカナン到着時まで生き延びたのはヨシュアとカレブだけですから波乱万丈のモーセの生涯を口述させたというのはあり得ます。しかしそれがいつなのかという疑問は残ります。出エにしても前期説、後期説、ルートにしても北ルート説、南ルート説あるいは12部族の中の数部族説等々。筆記用具は?用紙は?言葉は?(フェニキア書体のヘブライ語がカナン語と合成して成立したのはBC1100年頃、出エ頃ヘブライ語で書き得たのか?)20歳以上で軍務につく男子が60万人等(全体で200万以上)、にわかにはそのまま受け入れるわけにはいきません。シナイ半島は最大で5000人位しか生活人口を受け付けない厳しい地です。やはり数部族.数百人の出エ体験がカデシュバルネアでの長い滞在期間にイスラエル全部族共通の記憶として発展し、それが後に文書化されたというのが自然かなと思うのです。五書の著者が卓越した才能を持っていたというのはまったく同感です。むしろ聖書の究極の著者は神であるというのはある面正しいとさえ思います。
私の基本的スタンスは原理主義にあらず、破壊主義にあらずです。聖書の核には確かに歴史的事実があり、それは決してフィクションではありません。しかし同時にすべて歴史的事実というのでもありません。やはり「進化.発展」したと考えるのが妥当と考えます。(そういう考え自体が批評学?)もちろん森脇さんの考えもまた真理であり尊重されるべきものです。私は聖書及び聖書言語の大切さを強調こそすれ聖書やそれから発生した宗教を貶める気はまったくないのですから。物事にはおおよそ発展進化があります。自動車.飛行機がいきなり現代の姿になったのでしょうか、わずか数M空を飛んだという事実がありその事実に時間と技術という進化が今日の500人を乗せて空を飛ぶ、昔の人には想像もつかない発展をしてきたのです。キリスト教神学もしかりです。カルケドン・ニケア・アタナシウス信条等がキリスト教誕生とともに生まれたのでしょうか、実に300〜400年にも亘り論争を繰り返して発展してきたのではないですか。ウエストミンスター信条にしても17世紀に誕生したのです。神学は厳しい生存競争(異端、グノーシス思想等)を勝ち抜き進化してきたからこそ確固たる地位を占めてきたのではないでしょうか。この原理は聖書にこそ当てはまるのだと私は思っています。
 



 

ご快諾感謝!!聖書うんぬんではなく先生ではないからですが!!

投稿日 11月29日(火)00時16分 投稿者 森脇章夫 [s138020.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

そうですね確かにモーセ五書には「モーセが書いた」などとは一言もありませんね! ご指摘通り、問題の根幹はそこにあるでしょう。当然の事ですが聖書がJEDPの資料編纂と主張する破壊的批評学にも全く証拠はありません。ただの想像ですから。しかし論拠にはかなり説得力が有ります。
 JEDP文書資料説(もうこんな古めかしい50年以上の前の遠い過去の学説は今は実際誰も支持していませんが。最近は構造解析とかパソコンを使ったりしてすっかり学説がバラバラ散開、錯綜し、もはや定説は何一つありません。)の根拠の最大の物は次の事です。ドイツヘーゲル哲学的社会学進化論に乗っ取り「最初は簡単な聖霊崇拝がやがて中央集権的祭祀宗教となり、その権力の座に最終的に大祭司が登場し壮大な神殿が建設された」その段階になって初めて教典が必要とされ歴史が捏造されたという想像上の仮説がJEDP文書資料説です。
だから捏造された初期の祭儀や宗教形態には当然信憑性が無いというのです。だから中央集権祭司集団によってフエイクされた幕屋などという古代祭祀神殿は架空の物で実在しなかったとされたものです。それゆえに幕屋は実際に建設は不可能で構造も矛盾だらけのでたらめである。と言う物でした。
 じつは、この中央集権祭司の文書資料集のP(祭司典)の最たる捏造の証拠とされる「幕屋」に関する事が実は私の最も専門とする所なのです。何故こんな物を好き好んで研究したかというと、「幕屋の構造が制作不可能な非現実的記述である」というので実際に原典を調べてみて作れるか作れないかを検討してみました。もし嘘なら必ずどこかに矛盾や不合理が出て来て真偽の程は自明になると思ったからです。その研究結果は意外な物でした。事細かな計算の結果ピタリと寸法や重量構造は驚くほど厳密でその上実に正確でした。詳細は以下のリンクをご覧ください。JEDP文書資料説の最大の論拠であるP祭司資料に関する主張を見た限り、文書資料説の主張は私の確認した限り只の妄想でしかありません。
 さてもう一方のコンサバテイブ(保守派)にも、確かに問題(弱点)があります。それはどうして3,500年前の部分と2,300年前のマラキ書などが1,200年の時代差が在るのにほぼ同じ文法(正確には語法)で記されているのか?と言う事がどうしても説明出来ません。実際に旧約聖書はほぼ同じ文法で記されています。おかしいですね、「言葉や文章は必ず時代によって大幅に変化します。その解決に、バビロン捕囚から帰還した律法学者のエズラが同一の文法に成形して写本を纏めたと言う人も居ます。
  しかし、私はそれにも疑問を感じます。なぜなら翻訳されている旧約聖書は上手にそして見事に翻訳されていますが、実際に自分で原典をあたると、不思議に思ええる程、原意不明の単語が続出しています。正確にカウントした分けではありませんが、意味不明の単語、特に相当古そうな、アッカド語やセム語に類似する言葉ですが、全く意味の分からない単語が1割以上あります。もしかしたら15%ぐらい存在しるでしょう。それは厖大な数です。もしエズラが編纂したならどうしてこれらの古めかしい単語を、後代の分かりやすい一般的な単語に変換しなかったのか不思議でなりません。
 まあ古代の事ですから、今の私達とはどこかで相当考えかたが違っていたのかも分かりません。例えは、著者と言う概念に関しても相当違います。古代の文書の常識ですが、著者に関しては新約聖書の全書物同様に認識する必要が有ります。分かる事ですが新約聖書には「キリストの直筆」も「使徒達の直筆」もありません。当然です。それは当時の常識です。書き物(書物や手紙)は全て口述筆記でした。書記と言う職業があって、それ以外の人間が物を書くと言う事は古代にはあり得ない事だったからです。ですからモーセや預言者や使徒の自筆原典などと言う物は初めから無いのです。
  そして、これらの文書は全て綺麗に韻を踏んだ覚えやすい物語に(ナラテイブ)になっています。原典で読めば自明ですが、音読すると実に感情が自然に移入され解釈不要です。単語を発音する音だけで、あたかも交響曲を聞く如くに、音で迫力が伝わってきます。やはり相当コトダマの超弩迫力な人格がその音声の向こうにいて、その脈動が音声を聞く物にのりうつってくるのです。聖書を読む音声には何処を読んでも本当に圧倒されます。しかし、翻訳してしまうと実にくだらない(すみませんこんな言い方で)意味不明の文書(もんじょ)に変化してしまいます。おそらく原典の音声に表される、この名文なら、ネイテイブのヘブル人なら大抵簡単に暗記出来るでしょう。しかも相当量を。「ユダヤ教のラビが3人寄ればその暗記している記憶で全聖書を正確に復元出来る」と言う主張を聞いた事が有りますが当然かと思います。
  その様な訳で私はモーセ五書はおそらくモーセの従者シュア(ギリシャ訳はイエス)あたりが目撃した事を口述して、書記が書いたと推測しています。モーセ五書の殆どの部分を。その論拠ですが、目撃者でなければ書き得なかった事実が沢山聖書に記されているからです。それは先に述べた出エジプト記に記された移動式神殿の幕屋の記述です。確かにこの「幕屋」難解な記述が多くいのですが、実際に幕屋の実物を見た物でなければ書き得ない正確で緻密な表現が随所に見られるからです。そして70人訳の翻訳も忠実にそれらをギリシャ語に見事に訳出しています。
  結論ですが、私は手元にある聖書原典を読んだ素朴な感じとして、誰がそれを記したかは私が見た訳ではありませんが、こんな言葉を記した人物は並の凡人ではなく卓越した相当の奥深い学識と威厳を如実に顕示する人物が聖書を記したのであると、ひしひしと実感します。
http://bible.co.jp/tabernacle/
 



 

了解しました

投稿日 11月28日(月)19時27分 投稿者 佐々木次夫 [] 削除
 

たしか、福音書にイエスが「私を先生と呼ぶな、師と言えるのは天の父だけである」という主旨のことが書いてあるのを思い出しました。JEDPについて論じると、とかく不毛の議論になりがちでまとまりのある聖書ノメッセージが分からなくなります。ただ市販の聖書関連の書物は宗教団体関係の出版以外はほとんどJEDPの基礎知識を前提にして構成されているのがほとんどです。従って聖書に関心のある一般読者は抹香くさい保守的書物を読むか、破壊的批評学に走るかのいずれかになりやすい可能性があります。聖書が読み物として定着せず「積ん読」が実態なのは意外とこれに起因してるのかもしれません。素朴な質問ですが「モーセ五書」はだれが?いつ?どこで?どのように?記されたのでしょうか。結局BC1500年〜1300年頃のモーセの直筆が見つからない以上JEDP説は有力な仮説として残るのではないでしょうか。死海写本にしても今日伝わっているマソラー本文が古くて確かなものであるのを証明できても、その500年から1000年前の創世記の著者がだれであるのか証明できません。モーセの原体験を口伝えで引き継いだ学者達が古代イスラエルの歴史の中で文書化されバビロン捕囚後のユダヤ教団で聖典化され(エズラ.ネヘミヤの改革の頃)それを忠実に写本されたのが死海写本群だと思います。
 



 

先生は止めてください!!

投稿日 11月27日(日)23時55分 投稿者 森脇章夫 [s138020.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

 教会でも「先生」と呼ぶと一回につきアンパン一個のペナルテイを頂いています。笑い!!  仰せの通り、「キリスト教神学先にありき」は賛同致します。ヒエロニムスを初め70人訳の翻訳者にも「初めにスポンサーありき」という認識は真実と私も思います。その意味で、今日の全ての邦訳(全翻訳特に英訳)にもそれは真実でしょう。多摩美大の秦さんの主張は初めて知りました。神学校を25年前に卒業して以来、貧乏牧師業に徹しているので殆ど本を買っていないので彼の著書は一冊もありません。70人訳が創世記1章に用いているポイエオーは確かに「作る」と言う意味です。創造はクティゾーと言う語を使いますから。
ただ冠詞について言える事ですが、ヘブル語やギリシャ語の冠詞には不定冠詞という概念は無く、全て定冠詞です。すなわち話者が以前に定義したものを受ける場合にのみ使われます。当然聖書の最初に登場する創世記の1章1節の冒頭の単語に対して定冠詞を用いる事はあり得ません。
それからP資料と言う事ですが、それはJEDPに代表される文書資料説の主張です。現在では1948年のクムラン洞窟死海文書発見以来、その学説は根拠を喪失し霧散してしまいました。現在その学説の学問的正統性を主張するまともな学者は、それ以後は誰もおられない状態です。JEDPP文書資料説というその学説の主張は過去の遺物として古めかしい戦前の旧約学の書物の中に残骸を止めているのみです。それが無くならない理由ですが、それはあまりにも権威在る学者の著書に書かれていたという丈の原因によると私は思います。それ故に勇気を持ってJEDP文書資料説を否定する旧約学の専門家はだれも登場しませんでした。その結果、現在もその説がときたま登場します。しかしそれは全て専門外の方が、その戦前に権威在った古い書物を理解せずに引用されているだけです。
死海写本発見以後、ドイツ哲学に支配されていたJEDP文書資料節に立つ旧約学は、学問的基盤を喪失した混沌の状態です。否定も肯定もだれも勇気をもって行わない沈黙の状態が現在も続いています。過去の間違いを素直に認めそれを清算し新しい学問的基盤を生みだす学者も無く、かといってエドワートヤングの主張した保守的旧約学に戻る勇気の在る学者も無く、鳴りをひそめ、且つ新しい学問であるその死海写本そのものに取り組む学者も皆無に等しい状態です。なにしろ死海写本の発見は、それ以前に存在していた最古の旧約写本(起源後AD12世紀)のヘブル語マソラテキストの写本と全く同内容の最古の写本として一挙に1500年も昔のBC3世紀以前に旧約聖書が存在した証拠写本として歴史に登場してきたのです。JEDP文書資料説に立った学者たちが押し黙ってしまった衝撃がどれほど激しかったが理解出来ます。
その様なわけで死海写本は発見から60年近くなるのに権威在る神学大学(オックスフオードを筆頭に)は何処も沈黙し、キリスト教界とは殆ど無関係の「山本書店」などといういかがわしい出版社から死海写本に関係する書物が多く出版されている次第です。
 「真実を知りたい」というお言葉、私も全く同感です。そして、私も全く同じ目的で現在聖書を一切の先入観無しに直訳という形でただ読んでいるだけです。と言う事は「私は今、現在進行形で『真実』を追求している状態」にすぎません。ですから先生は止めてくださいね!! 
 



 

お返事ありがとうございました。

投稿日 11月27日(日)15時52分 投稿者 佐々木次夫 [l245235.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

私ごときの質問に丁寧にご返答くださりありがとうございました。
さて、EJヤングについては聞いたことがあります。「旧約聖書緒論」の著者で日本の旧約学界とりわけ保守派の学者にとってのバイブル的存在であるように聞いています。その彼が1章1節を主節と主張するのは当然でしょう。
が、しかし私は何か釈然としません。1節がだれがみても主節と分かる書き方をしているならまだしも、どうもグレーゾーンが残ります。思うにキリスト教界、キリスト教系学者は押しなべて「初めに〜」と訳します。そこにキリスト教神学、教理が横たわっている気がするのです。初めであり終わりである神、アルファでありオメガである神、創世記で始まり黙示録で終わる聖書。そういうキリスト教神学がなせる翻訳が1節「主節」説なのではないでしょうか。翻訳は第二の著者になり得るのですから翻訳者の背後の教団、スポンサーの意向から逃れられないのです。ヘブライ語からラテン語に翻訳したヒエロニムスでさえ70人訳に妥協せざるをえなかったのです。私はどんな団体にも利害関係がありません、真実は何かを知りたいだけです。「ベレーシート〜」のベになぜ冠詞がないのか?2章4節後半に同じ構文の創世記事がありながら、そこでは「〜が造られた時」と訳しています。いったいどういう基準があるのか分かりません。シナゴーグにある聖書の英訳は従属節-挿入節-主節となっていること、マソラー学者が母音をつけるとき「ベ」に冠詞を付けなかったのはかつてトーラーを民衆に読み聞かせたときの意味を忠実に再現したかった、つまり1節は従属説あると主張したのではないかと思うのです。1章はいわゆるP文書でバビロン捕囚後に書かれたものです。ユダヤ人がなぜ存在しているのか?ユダヤ人がなぜ捕囚の身にあるのか?をバビロニアの宇宙観を借りながら秩序と法(トーラー)の神を主張したのが創世記の著者の意図であると考えます。
70人訳の5書は良く訳されていると言われ信頼されるべきものです。しかしこれも、どちらにも訳し得る(主節か従属節か)もので70人訳聖書を訳している秦剛平氏によれば「ポイエオー」というギリシャ語に「創造」という積極性はなくただ単に「造る」という意味しかなく2章4節後半と同じだという趣旨が書いてありました。
だらだらと書きましてすみません。先生からみれば私は聖書に関しても言語に関しても素人以外の何者でもありません。ただ主観を申し上げたにすぎません。お気に触りましたらお許しください。先生の聖書は「読む」ものではなく本来「聞く」ものであるということばにはっとされました。
ありがとうございました。
 



 

やっと今日の直訳箇所が出来ました。

投稿日 11月27日(日)08時56分 投稿者 森脇章夫 [s138020.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

今週は様々なアクシデントが発生し、随分と時間を取られました。近所でセアカゴケグモ(毒蜘蛛)が発見され。PTAの役員をしている子供の学校(大教大池田附属高校)で基準値を超えるアスベストが測定され、NHKの全国ニュースや各種マスコミに掲載され、てんやわんやでした。直訳はやっと、なんとか出来て良かった。それも先週に少し進んでおけたおかげです。そんなわけで貯金?を使い果たしたので次週はとても合計400節も訳せません。13章と143章だけにして15章は次々週に繰り越して(その週は4章を予定)直訳を予定しています。
 



 

佐々木さま難しいご質問を有難うございました。

投稿日 11月24日(木)23時24分 投稿者 森脇章夫 [p014044.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

昔エドワードヤングという方の「創世記の最初の3章」という題名の小冊子を取り寄せて読んだときにそのことを詳しく扱っていたと記憶しています。1節は主節3節の従属節で2節は挿入節という主張に対して、1節が独立節であると主張しておられたように思います。
 私は別にどちらでも大した問題ではないと思っています。なぜならば古代に聖書が会衆に音読された時、その様な文法は全く会衆に意識されなかったと思うからです。古代文学は文学ではなく本来、聖書記者となった預言者等が文盲の会衆に話しかけた「話し言葉の記録」と認識しているからです。後代に発達した文法を時代をさかのぼって解釈に応用するのは基本的な錯誤と思うからです。そのようなわけで回答になっていませんがそう思っています。参考のために古代にどのように創世記が読まれていたのかの一番古いものはやはり70人訳であると思いますのでそれをすこしご紹介してみます。
 紀元前3世紀にエジプトのアレキサンドリヤでのいわゆる70人訳の、私の直訳はこうなります。1節・中で最初 彼が 作った その神 その不可視 そして その 地を 2節 その も 地 彼が存在していた 非可視 そして 非下に見せかけの、そして 闇は 上に その 非深淵の、そして 風(霊) 神の 彼が上に運んだ 上に その 水の。3節 そして 彼が言った その 神 彼が興されろ 光。そして 彼が興きた 光が。
一節が主文 二節がその従属節 3節は挿入節または従属節 と言う事になるでしょうか。まあ現在のヘブル語の文法と今から2千300年ほど前のネイテイブの70人訳の翻訳者のヘブル語の解読力を比較する事は愚かかと思いますが、客観的にみて現在のヘブル語学者達の理解はヘブル語が約1000年間歴史から消失していて復活し復元された学問である事をおもうと70人訳の翻訳を支持するのが妥当かと思います。
私は今まで、70人訳が聖書学者の間でまともに読まれたり議論されたのを聞いた事がありません。「70人訳は信憑性が無い」というのがその根拠です。しかし、私が現時点において読んでいる限りにおいて、70人訳は非常に厳密にマソラのヘブル語のテキストを厳密に翻訳していると思います。それは否定出来ない事実です。にもかかわらず、70人訳が酷評されているのは、そのの批評をされている当の本人のギリシャ語力に問題がある様に感じます。新約聖書のヤコブ書以上に高級な70人訳に使われているギリシャ語を読解する資質をもつ事は並大抵ではありません。その力量をお持ちではない方が、自分の資質を棚に上げて読むのが難しい70人訳を批判された様に思います。それが故にまともな70人訳の翻訳にはお目にかかった事がありません。その結果旧約学の専門家の間にそのような70人訳を軽視する発言が一般化していた物と思います。
  ぜひ佐々木さまのご意見もお聞かせください。
 



 

残っていたレビ記9章もいまアップしました。

投稿日 11月18日(金)23時08分 投稿者 森脇章夫 [p014044.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

牧師になってから最初の20年間は毎回説教箇所は順番に1節を講解していました。短い様ですがその一節に出てくる原典の単語をすべてをコンコルダンス(聖書語句索引)で引き、その単語の意味を分析し辞書だけでは分からないその単語の持つ中心的意味を特定して重要単語を中心にして説教を構築していました。それは毎週実に厖大な作業です(最初はやはり40時間を要しました。)が、その単語の意味を学ぶのに大変有益でした。聖書全巻の用例を見ましたので聖書全巻が言っている意味を広く学ぶ事が出来ました。20年立ってからだんだんと説教範囲を広げまずその文脈全体の一段落毎にしました。それを増やして毎週一章ごとにし、毎週2章になり、最近は週に3章毎になりました。本当に教会の礼拝に出てくださる方は長い聖書朗読を忍耐をもって傾聴してくださるのには頭が下がります。私もそれに応え、旧約聖書にはヘブル語原典だけではなく70人訳の原文のギリシャ語もあたり説教に望んでいます。準備のために原典は毎週6章を読了して説教を構築しています。この直訳はその説教準備の副産物です。毎週毎週実に沢山の方がこの直訳をわざわざ見に来てくださりその多さに驚いています。そしてそれも私の説教準備の大きな励みになっています。そんなついでの直訳ですが今後とも聖書研究や説教準備に大いにご利用ください。
 



 

レビ記8章を今アップしました。

投稿日 11月18日(金)00時01分 投稿者 森脇章夫 [p014044.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

今日は思いの外進まずとりあえずヘブル語からのレビ記8章の直訳漸く出来ましたのでアップしました。
 



 

予定通りヘブル語原典直訳レビ記7章をアップしました。

投稿日 11月17日(木)00時12分 投稿者 森脇章夫 [p014044.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

今週の教会での私の礼拝説教箇所レビ記7章から9章の70人訳とヘブル語原典からの直訳計196節中、130節が終わり漸くあと60節になりました。出来れば明日にでも全部完了予定です。
http://bible.co.jp/bible/ot/lv/lv07.htm
 



 

次週の礼拝箇所の70人訳レビ記6章から9章直訳アップしました。

投稿日 11月15日(火)23時53分 投稿者 森脇章夫 [p014044.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

 今週は長いと思って少し早めから直訳に取り組みました。意外と簡単なギリシャ語で殆ど辞書を引く事も無く、もう完了してしまいました。明日からこんどはヘブル語の原典からの直訳に取り組みます。いずれにしても問題なのは次々回に礼拝説教箇所に予定している、13章から15章の3章の合計節数299節の時です。今週と次週でできるだけ頑張っておいて、何とかクリヤしたいと願っています。そんなわけで、残りのヘブル語の直訳は明日から取り組みます。順次出来次第アップを致します。請うご期待!! 
 



 

遅くなりましたが今日の礼拝の説教箇所レビ4章から6章をいまアップしました。

投稿日 11月13日(日)08時57分 投稿者 森脇章夫 [p014138.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

最近は気楽に直訳をしていましたが今回は168節とわりと長かったので手間取りました。次回はさらに更に196節と今までで一番長かった出エジプトの25章あたりと同じ長さとなります。
 



 

残っていたヘブル語原典からの直訳1〜3章も今アップしました。

投稿日 11月6日(日)00時58分 投稿者 森脇章夫 [p014138.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

これで漸く明日の礼拝説教の箇所の原典直訳が終わりました。かれこれもう10年ほど毎回1章を標準に原典を直訳し礼拝説教箇所としてきました。数年前から週に2章になり、旧約をする様になって70人訳も直訳するので合計4章になっていました。確かに週に150節から200節の原典読破は厳しい物があります。しかし、こんな事を(牧師として説教を)30年近くしているのですから、これぐらいは当然と思っています。今回はギリシャ語70人訳3章ヘブル語原典3章の計6章でしたが節数が平均17節と少なく総計でも丁度100節ほどで短かったので助かりました。 勿論このほかに毎朝のデボーションで読破するものを加えるとそちらが毎週200節以上有りますので毎週の原典読破量は4〜500節で、日にすると60節平均です。
 



 

70人訳のレビ記1〜3章が出来ました。

投稿日 11月3日(木)21時20分 投稿者 森脇章夫 [p015115.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

出エジプト記が終わったので、今度はレビ記に取り組みます。出エジプト記に比べると格段にやさしい文章ですがそれでも日に20節程度でのんびり進んでいます。これからヘブル語の方の直訳に取り組みます。大抵の方はレビ記というと大変霊的な難しい書と思われている様ですが、それは全くの思い違いです。荒野の旅をしてこれから約束の地(ペスト汚染地域)に入る衛生問題が主体でそれに加えて祭司の服務規程等庶民生活の現実の実際が記されています。その意味で実際の具体的信仰生活に大変有用な書物です。そのことが理解されず、また殆ど読まれていないのは実に大きな損失だと思います。
  レビ記を一通り訳し、そして民数記の20章まで進むと、そのあとから創世記に移ります。なぜこの順番か分かるでしょうか。そう聖書が書かれた順番(ある部分は書かれている内容の起こった順序)に従って時間を追って進んでいます。その後もほぼこの原則で旧約聖書全巻の完訳を目指します。完了は多分あと8年はかかるかと思います。気長にお待ちください。
 



 

投稿文字数制限最大五千字にアップしました。

投稿日 11月2日(水)09時24分 投稿者 森脇章夫 [s139028.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

今まで2000字にしていましたが、時々不便を感じるので、今5000字にアップしました。
 



 

↓ ↓ 下からの続きです。

投稿日 11月1日(火)23時13分 投稿者 森脇章夫  [s139086.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

第二点・私の学びも確かに過去の学者の研究の蓄積です。そしてそこには正しい事も、そして当然間違いも多く含まれています。しかし、有名な方が間違われていると後から正しいとわかっても直せない事が沢山あって本当に問題だと思います。特に日本語の訳語は間違いだらけです。真理→真実、信仰→信頼、赦し→放置、交わり→共有、義認→義と勘定する、等々基本的な訳語にも間違いが沢山有ります。ぜひ誤訳のページなどもご覧ください。

第三点・聖霊さまが日本語訳を通して働かれる 
勿論日本語訳だけではなく、英訳も中国語訳も用いられますね。そして間違った翻訳でも用いられます。そして詩篇19篇1節や使徒17章27節等にあるように一般啓示(自然現象)を通しても語られます。しかし、神様の直接の意志(特別啓示)は聖書の原文に記されている物だけです。これを正しく正確に理解する事を抜きにして「神様のご計画や意志を正確に知る事は出来ないと思います。」確かに翻訳は原典に忠実になされていると言われていますが、残念な事にそれは真実ではありません。そして完全な翻訳が今後出てくる事は無いでしょう。詳訳聖書の緒言に「新約聖書の翻訳として完全無欠なものは無かったし、またそれは不可能な事である。」と記されています。そんな事を翻訳聖書の冒頭に書いては売れないこと請け合いですが、偽らざる真実だと思います。

やはり原典を学ぶ事は必要な事だと思います。そして、ギリシャ語は英語や日本語等に比べるとずいぶんと優しい言語だと思います。以上  
 



 

佐藤 哲彰様ご質問を有難うございました。

投稿日 11月1日(火)23時13分 投稿者 森脇章夫  [s139086.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

ご質問を有難うございました。
一つの言語を修得するのは確かに大変な事だと私も思います。けれども、聖書は人間の言葉はバベルの塔以前は「一つであった」と言う事を思うと、それが果たして妥当かと考えてみるのも良いかと思います。

そこで、着目してみたい事は、文章と会話の相違です。難しいのは、文章や文法で、会話は単語さえ覚えれば結構何とか成るものです。特に古代語は文章の解読や解釈は大変です。しかし、聖書は興味ある事に「朗読用」に記されている古文書です。新約のギリシャ語も旧約のヘブル語も明確に、文学として釈義される為ではなく、無教養な文字を知らない民衆に朗読して聞かせる為に記されたものです。原文で読んでみれば自明です。音声として実に明確に分かりやすく聞き安く記さ(話され)れ、その話し口調がそのまま記録てあります。しかし、翻訳はこの点が忘れられ頭で理解する文章にされているのです。

 ですから、その言語(ギリシャ語とヘブル語)の特徴を理解すると後は単語を覚えるだけでほぼ完璧にモーセやパウロの言っている事が理解出来ます。特に70人訳と新約の記されているギリシャ語は庶民の会話専用のコイネーグリークで記されている事からも自明です。これは文章にする古典ギリシャ語とは違って無教養な外国人(ペテロやヨハネでも)が、誰でもすぐに話せた非常に優しい言語です。それはそのまま、今日にも当てはまります。

さてこの点を踏まえてご質問にお答えします。
第一点・ルッターの万人祭司 「祭司」とは神様と人間の間に割入る仲介人ですね。神様は新約も、旧約でも、何時もその様な介在者を通す事を好まれず、信じる普通の人々と何時も直接に話されました。預言者がいて、神様がその預言者と言う職業の人に語られたのではなく、普通の人に神様が語られてその人を後代の人々が預言者と呼んだのです。当然、神様は今も聖書も解釈者や説教者を介さず、聖書を通じて神様は直接私達と語ろうとしておられると思います。
上に続く ↑ ↑
 



 

原理的なこと

投稿日 11月1日(火)22時38分 投稿者 佐藤 哲彰 [210-20-47-230.rev.home.ne.jp] 削除
 

御名をほめたたえます!初めてホームページを拝見しました。「祈りのネットワーク」で書かれていたのはこのことだったのですね。勉強になります。感謝です。ブックマークしました。
先生に導きと守りと祝福が豊かにありますよう。

ところで、原理的なことについて先生にお伺いしたいのです。

訳が正しいかどうか、訳に頼らず自分で学んで確かめなければならない、ということですが、私も賛同します。(アガペーとアガソスに関連があることを知って、非常に感動しました)最近サボっていましたが、少しずつ進めねばと思います。

しかし、いくつか自分で考え込んだ原理的問題があります。
(0)一ヶ国語を習得し、正しく理解するということは、特に古典世界では大変なことですね。時間の余裕、知的訓練経験などに恵まれた一部の人でなければ困難で、またそういう能力と議論能力に優れた人が結局信仰共同体のリーダーシップをとるようになるのではないでしょうか。それが、神さまの望んでおられる教会の姿だろうか、と思わされることがありますが、先生はどうお考えになられますか?(初代教会や、小さな学会のようになってエネルギーを失いつつある、無教会主義運動のことを念頭においています)。
(1)ルターのドイツ語訳で、祭祀に限らず一般人も聖書に接することができるようになり、それがプロテスタンティズムの基盤(聖書主義・万人祭祀)になったとされているようですが、このことについて先生はどう思われますか?
(2)先生が学ばれているギリシャ語・ヘブル語も、過去の学者の研究の蓄積によるものですが、それが実は誤っていたという可能性はあると思われますか?またたとえば200年後には研究が進み、重要な用語が新しい理解と解釈に変わっているという可能性はあると思われますか?
(3)聖霊さまが日本語訳を通して働かれる可能性について、どう考えればいいのでしょうか。

以上は同じことの別の側面だとは思いますが、私自身のひそかな悩みです。もしよければ、ご教示よろしくお願いします。主にありて



 



 

ヘブル語からの出エジプト記も今完訳アップしました。

投稿日 10月29日(土)19時04分 投稿者 森脇章夫 [p056164.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

今回アップしたのは39章と40章です。これで出エジプト記は完訳です。70人訳と比較頂くと分かる事ですがヘブル語は至って簡明に記されています。しかし、これが70人訳になるとどういう具合か長くなりしかも言い回しが複雑になります。おそらく正確に翻訳しょうとしてこうなったのかと思います。
余分な事ですか英訳聖書や日本語訳の聖書は原文の主張内容に比して、大変簡潔に短く訳しています。おそらく販売のための価格の上限が設定されそれに翻訳が制約されたためで、こんな所に収益至上主義の聖書翻訳の実体が見えます。新約も、旧約もです。(この聖書のこの様にわけた呼称には問題があるのですが)勿論、その短い訳分で原文の趣旨が伝わっていれば良いのですか残念な事にそうとは言えないのが実情です。直訳を見て頂くと分かる事ですか、聖書が意味している事をそのそのまま正確に表現するとずいぶんと長くなります。そのはずです。ギリシャ語の原文では一語ですが、接頭辞に加えて合成前置詞、時制や態に加えで法が接合して一語で約2万通りに変化出来るですから含まれる意味は厖大です。これがギリシャ語の一大特質です。これを英語や日本語に伝えるにはおそらく長く長くなってしまいます。(直訳が長いのはこのためです。)ヘブル語は確かに簡潔ですがものすごい量の同義語があり原典では使い分けがされているのですが悲しいかなその訳し分けは至難の業なのです。そんなわけで一応出来ましたので皆様ご笑覧下さい。
http://bible.co.jp/bible/
 



 

安間様、たぶんあの書き込みはロボットです!

投稿日 10月29日(土)17時40分 投稿者 森脇章夫 [p056164.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

ホームページを運営していると色々な事が有りますね。ところで例の書き込みはおそらく北米のネットショップがアクセス獲得のために行っているロボットソフトによる書き込みだと思います。私のホームページには15程のBBSが有りますが同様のリック先で別名による20程の被害が有りました。そのうち猥褻なもは全て削除しましたが害の無い物だけ削除せずに置いてあります。そんなわけで質問してもおそらく回答は無いかと思います。人間かロボットかの判別ですか投稿者のすぐ右に在るプロキシサーバー名の表示の有無で大体判別出来るかと思います。 DurrellDaviot [] の [] の中に本来であればアドレスが表示されなければなりません。以上です。
 



 

直訳です!

投稿日 10月29日(土)06時44分 投稿者 Καζυο Ανμα [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

Boa noite DurrellDaviot! Voce entende portugues?
DurrellDaviotさん、こんばんは、あなたはポルトガル語が分かりますか? 

Quem e voce? Voce e cristao? Onde voce mora?
あなたは誰ですか? クリスチャンですか? どこに住んでいますか?

Eu sou japones, cristao quero estudar BIBLIA. E voce?
わたしは日本人です、クリスチャンです、聖書を勉強するのがすきです、あなたは?

 



 

Boa noiteDurrellDaviot!

投稿日 10月26日(水)21時48分 投稿者 Καζυο Ανμα [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

Boa noite DurrellDaviot! Voce entende portugues?
Quem e voce? Voce e cristao? Onde voce mora?
Eu sou japones, cristao quero estudar BIBLIA. E voce?
Καζυο Ανμα
 



 

70人訳旧約聖書出エジプト記直訳完了しました!

投稿日 10月26日(水)09時48分 投稿者 森脇章夫 [p015233.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

10年前に頓挫してそのままになっていたもの、漸く今完訳しました。3月もかかってしまいましたが、英語を介さないでギリシャ語の原典からの訳は日本語では初めてではと思います。やってみて正直なところ大変でした。特に25章からの幕屋の構造は実に難解でした。辞書(リデルアンドスコット)に無い言語が続出しました。ただ殆どが合成語で分解してその意味を記してあります。そしていくつかの(3つぐらい)用語は結局全く意味がわかりませんでした。そのまま音写し想定される意味とヘブル語本文の意味を加えて括弧内に記しておきました。ある単語は分析に5時間ほど要したものも有ります。どれかというと「食べる」と言う意味のδεωと言う単語です。これは大変面倒な変化をする上に同綴りで3異義があり何時も困りものの単語です。一般的に「縛る」そして次に「要求する」そしてめったにない「むさぼり食う」という全く別の単語なのですが原形の綴りも変化も全く同じで翻訳者泣かせのトップバッターです。合成前置詞+接頭辞+語幹δ+接尾辞を従えて一語となるため正確に分類する事は至難の業でした。
それから完訳し終えて思った事ですが、今まで「70人訳は翻訳がいい加減だ」と言われていたのですが今までにヘブル語の原典と比較してみた限りにおいて非常に正確に訳されていると言う事が分かりました。問題はおそらくその翻訳者のギリシャ語力に在るのではと思います。ただ出エジプト記は35章から40章までの部分は確かに非常に欠落や省略部分が甚だしい事は事実です。これは古代の出エジプト記の写本が羊皮紙に記された巻物であり、翻訳がエジプトで紀元前3世紀の動乱期になされた事を考慮すると原因は自明です。おそらく翻訳者が入手した写本の劣化による本文の損失に起因する物と思われます。この部分を除けば70人訳は実に正確に良くギリシャ語に訳されていました。いま私たちが手にしている日本語の翻訳聖書よりは格段に優れている事は自明です。
  ヘブル語の出エジプト記の方も数日で完了予定です。こちらは70人訳の1/5ほどの労力で出来ますのであと少々お待ちください。
出エジプト記の次の直訳はレビ記を予定しています。


 



 

How do you do?

投稿日 10月22日(土)08時55分 投稿者 Kazuo Anma 安間 [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

How do you do ALLBradleah? My name is Kazu, japanese.
Your are welcome! Now, I have a question "who is Rottweiler?
See you again!
 



 

了解です。

投稿日 10月12日(水)22時16分 投稿者 森脇章夫 [f074158.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

ギリシャ語の時制は英語や日本語と概念が根本的に違います。時制は行動した「時間の種別」ではありません。「行為の種別」を現すのです。この点の誤解が英語圏に顕著で、誤訳の蔓延を呈しています。ギリシャ語講座では10課で説明しています。ギリシャ人は人間の行為を英国人のように「過去、現在、未来」で分けるような単純な認識をしないのです。その行為の種類で分けて動詞の時制(正しくは行為の種別)を当てはめます。具体例を上げます。いわゆる英語の現在形はギリシャ語では行為の「習慣性または反復」を意味します。そして過去形には完了 未完了 大完了 不定過去(アオリスト)の4種類が有ります。いずれも時間の意味はありません。
 それぞれの意味は、完了は「今の現象が過去の行為の結果」出在る場合に使います。未完了は「今行っている事が間もなく終わる場合」に使います。大完了は「過去の動作の影響が現在無い」場合に使います。そして最後の過去形がこの、主の祈りのなかにの「赦す」と訳されているαφεs(不定過去2人称単数命令形)とαφηκαμεν(不定過去1人称能動形)なのです。この不定過去(アオリスト)はギリシャ語独特の言葉で英語の時制に在る過去の意味とは殆ど関係ありません。この不定過去は未来にも現在にも、そして過去にも用いられます。(ふてえ過去! です。全く!) その意味は「歴史上に1回限り」の場合にのみこの時制が使われます。たとえば、「生まれた」「死んだ」「見た」「聞いた」などで同一の現象は歴史上二度と生じない時を現す為に使われるのです。言う事は後戻り出来ない一線を画する場合にのみ使う言葉です。
  ところで、人間が硬い意志をもって行為する時はギリシャ語では未来形を使います。確実性を現す場合で、勿論過去や現在にもこの時制は登場します。
  この場合「私達は私達の負債を放置しました」という意味になります。ところで気になるのはその負債の債権者は誰かという事です。もしかしたら「神様に借金している当の罪人が自分が神様にしているその神様の借金を債権者である神様に返す事が出来ないので勝手に自分からその借金返済を諦めた」という意味かもしれません。(@@;)
 



 

ありがとうございます

投稿日 10月12日(水)21時29分 投稿者 安間 [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

さっそく、お答えくださってありがとうございます。私のわからないところは
αφηκαμεν 放置したの時制です。過去形ですか、現在形ですかそれによって、意味が違ってくるので、放置するように、放置したように、英語訳をみると、as forgive our debtors となっていて、現在形です。もちろん英語訳はあてにはなりませんが!
 



 

主の祈りは今「美しき誤訳」で取り上げようとしていた所です。

投稿日 10月11日(火)23時10分 投稿者 森脇章夫 [f074158.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

今晩は!! ご質問有難うございました。いずれの訳(英訳も)基本的に語句の翻訳が正しくないので分かりにくくなっています。主の祈りのこの部分はこう直訳しました。以下直訳
「マタイ6章12節 ・そして あなたは放置しろ 私達に その 借金を 私達の、様に そして 私達が 私達が放置した その 借金を 私達の。」
 問題は「赦す」と誤訳されている「αφεs」です。この言葉は αφιημιと言う「置き去りにするor見捨てる」という意味の言葉です。「赦す」と言う意味はありません。「そのまま放置しておく」と言う意味です。借金にすればその免除ではなく「返済を求めない事」を意味します。ですから、この語が「罪」に対して用いられる時に「赦す」とするのは明確な誤訳です。「罪の刑罰を与えたり、償いを要求せずそのままにしておく」意味です。ですから信仰してもキリストの贖いに与っても、人の罪はそのまま残っているのです。しかし、その罪は神様が関西弁で言う「ホッタラカシ」にして下さっているのです。そして私達が他者に、罪の償いを要求しないことが要請されています。(マタイ18章23節から35節の借金免除のたとえ)だから、神様は私にも罪の償いを要求されないのです。キリストの贖罪に与った人は入信前は罪人でした、そして入信後も罪を冒しますが、神様はキリストに免じてどちらの罪に対しても「罰」を与えたり、「償い」を要求されないのです。
ですから、主の祈りを初め聖書が「赦す」と訳しているαφιημιが使われている146箇所中「赦す」と訳されている70箇所程が誤訳です。それらの箇所で聖書が言っている事は「人や罪を赦す」事ではなく、人が行った罪にたいして腹が立っても、赦せなくとも「ほっておく」ことが要請されているのです。 以上
PS:冠詞の表の一部の物に「気息符」('の逆向きで「h」の音を加音する)をつける修正アップを忘れていました。主格単数男性女性、複数男性女性の冠詞にはこれが就いて単数は男主格「ホ」、女主格「ヘ」、 複数男主格は「ホイ」複数女主格は 「ハイ」と読みます。
 



 

教えてください

投稿日 10月11日(火)21時20分 投稿者 安間 [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

マタイによる福音書 6:12
και αφεs ημιν τα οφειληματα ημων, ωs και ημειs αφηκαμεν τοιs οφειλεταιs ημων
口語訳 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債もおゆるしください。
私訳 わたしたちの負い目を赦してください、そして、わたしたちも自分に負い目のある人を赦します。
どうも以前から、赦したがひっかかっています。そんなに簡単に赦せません、だから祈るのが苦しいです。まず赦してください、そしたらできるかどうか分かりませんが、赦すように努力してみます。どうでしょうか?
 



 

冠詞は今までの変化の仕上げの様な感じです!

投稿日 10月10日(月)22時12分 投稿者 森脇章夫 [f074158.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

けれども、これはしっかり見て書いて覚えて下さいね。ギリシャ語には冠詞によく似た「小辞」や次章で学ぶ冠詞とそっくりの「関係代名詞」があってうっかり取り違えると文章の意味をすっかり取り違えてしまいます。このあたりの識別がギリシャ語修得の鍵だと思います。がんばれー!!
 



 

第6課形容詞終了

投稿日 10月10日(月)17時40分 投稿者 安間 [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

ここ2週間は仕事が忙しくて、やっと形容詞が終わりました。名詞の変化をしっかりやっておいたので、簡単に終わりました。さて今度は冠詞に入ります!
 



 

聖書誤訳のトップページ改版しました。

投稿日 10月8日(土)06時41分 投稿者 森脇章夫 [f074158.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

 衝撃の誤訳に関して現在、信仰→信頼、赦し→放置、真理→真実といった重要語句の誤訳ページを作成しています。間もなく追ってアップいたしますのでご期待ください。そうそう、このような「誤訳」と主張する私の論拠を「誤訳」のトップページの一番最後に追加しました。御照覧ください。
http://bible.co.jp/bible/nt/goyaku.htm
 



 

衝撃の告発第二弾アップしました!

投稿日 9月29日(木)13時53分 投稿者 森脇章夫 [f074158.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

以前から一番問題に思っていた聖書書名の翻訳に関しての誤訳をいまアップしました。また1週間ほどの間に様々改訂て一月ほど後に落ち着くかと思います。御笑覧下さい。
http://bible.co.jp/bible/exgesis/name.htm
 



 

70人訳旧約聖書の出エジプト記の難関部分を通過しました!!

投稿日 9月26日(月)10時50分 投稿者 森脇章夫 [f074158.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

10年ほど前、礼拝説教に並行して毎週70人訳を翻訳していました。しかし20章を過ぎたところで挫折。ヘブル語は簡単に訳せるのですがどうしても70人訳が進まないのです。あれから10年今回再挑戦して漸く、幕屋の記述のある25章から30章まで直訳が終わりました。大変だったのは動詞の原形さがしです。オックスフオードなどで出しているいい加減なデーターベースに頼るわけにもいかず、(意地でもあんな物に頼る気はありません。)かといって All The Greek Verbs や新約用のアナリティカル レキシコンなどは全く役に立たず、実力でバースを完遂する以外術がありませんでした。一番手のかかったのは25章 や27章で平均で1時間3節といった進捗具合です。新約聖書の最難関箇所(ヤコブ書)の3倍以上の低速でした。おそらく70人訳の出エジプト記の25章から30章までの計6章の翻訳だけで新約聖書全巻を翻訳するに匹敵する労力を要したと思います。なにしろ現在新約聖書を朝のデボーションで通読していますが大抵10分で一章平均30節程をパースを含め記読了できるようになったからです。
今後の予定ですが、ひとまず出エジフトを終えて次にレビ記に進み民数記の途中(17章)で創世記に移り、その後民数記から申命記に進む予定です。乞ご期待!!
http://bible.co.jp/bible/lxx/
 



 

次はマタイ5章ですね!!

投稿日 9月19日(月)11時12分 投稿者 森脇章夫  [f074157.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

実はマタイの4章をチエックしたついでに、5章もチエックしておきました。ご質問のマタイ4章の24節は癲癇(テンカン)です。ギリシャ語では月に打たれた(σεληνι+αζομαι)です。直訳すると「月に 干からびるor畏れる」です。

「詳約聖書」は手元に有ります。私も最初と言ってももう30年以上前ですが、、、これを読んで余計に分からなくなって夜学の神学校に通うきっかけになった本です。爆!! その結果、また分からなくなって、とうとう仕事をやめて神学校に入学する事になりました。その本!!良く読まれる事をおすすめします???
日本語のヘブライ語の辞書が在ったのですね。知りませんでした。お手頃なお値段のようですから購入されては如何でしょうか。良かったら私も購入します!!! 爆!!
 



 

あっています!

投稿日 9月19日(月)10時50分 投稿者 森脇章夫  [f074157.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

安間様はずいぶんと進みましたね! 満点です!! ところで1点だけコメントさせてください。
それは καινην と言う言葉です。これは新約聖書のギリシャ語の新約聖書の書名に使われている単語です。καινη + διαθηκη(有効な契約)と言う意味です。英訳は、ご存じ New Testament となっています。実はこれが英訳聖書最大の誤訳(邪訳!)だと常々思っています。ギリシャ語のκαινη は New と訳出するべきではありません。New はギリシャ語の νεοs の訳語です。字から見れば自明かと想います。
νεοs は「時間的に新しい」ですがもう一つの、καινη (原型 καινοs)にはその概念はありません。καινοsは「本質的な有効さ」 を表している言葉なのです。そのことから New Testament も実に美しい誤訳(邪訳!)なのです。
 ですから、ギリシャ語の「καινη διαθηκη(有効な契約)」の意味することは基本的に「新しい教え」と言う意味は無いのです。
 新約聖書を読んでいて気がつくのは、キリストの「愛の教え」は旧約聖書の戒めの本質的な教えと完全に同一だという事です。キリストは幾度もその主張をされました。(ヨハネ15章10節など参照)その「旧約聖書の教えの本質とその有効さを身をもって明示されたキリストの教え」が私たちが手にしている新約聖書が同一で在るのは必然です。
  キリストが問題にされたのは旧約聖書ではなく、それを曲解釈している人間でした(参照、マルコ7章9節「自分達の言い伝えを守る為に、よくも神の戒めをないがしろにしたもので素。」)
  この大切な基本を、どう間違えたのか、英訳聖書は「旧約はもう古い。新約聖書が在るのだから旧約は廃棄された!」と言う先入観を与える「新約聖書」という誤訳をしてしまったのです。そして、その間違った先入観が英訳聖書とその伝統を受けた日本語訳聖書に連綿と受け継がれているのは非常に残念です。
 



 

あっていますか?

投稿日 9月19日(月)07時12分 投稿者 安間 [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

εντολην καινην διδωμι υμιν, ινα αγαπατε αλληλουs
エントレーン カイネーン ディドウミ ヒュミーン ヒナ アガパーテ アレロウス
いましめを あたらしい あたえる あなたがたに ために あいしあいなさい おたがいに
あなたがたに、新しい戒めを与える、たがいに愛し合いなさい (ヨハネ13:34)

まだこの箇所をやくすには私には早いと思いましたがやってみました。添削してください、先生!

大日方さんはやっぱり長野県の方でしたか、じつは私の妹が長野県の飯山市に嫁いで行っているものですから、その関係で若干知っています。松本市ですか、松本深志高校なら知っています。お城も。

 



 

めっちゃ久しぶりになってしまったぞ^^;

投稿日 9月19日(月)00時54分 投稿者 大日方 [yahoobb219198108032.bbtec.net] 削除
 

なかなか思うように来れません
しかもこの間、携帯電話を水没させてしまい、Eメールアドレス変わってしまっているし^^;
せっかくEメール掲示してるので、どなたか暇なときにメールくださいませ♪
(あるの?、暇な時間・・汗)

で、今日は・・ようやくマタイの4章(汗

17節の「悔い改め続けろ」心に響きました。
24時間イエス様と交わることは、人間として確かに不可能ですが
だからこそ「悔い」て「改め」続けようとしなければならないんですねぇ。。
ばかげた質問なのですが・・24節の「癲癇」って、何て読むんですか?(汗

ところで・・・直訳とは直接関係ないのですが
「詳約聖書」なるものが来月、手に入る事になりまして・・
 ネットで検索してみると、けっこうあちこちの教会で説教のときに
 用いられているようなのですが・・この聖書って直訳的には
 どうなんでしょう?森脇先生、ご存知ですか?(謎

あと、日本の へブル語辞典で
 キリスト聖書塾とかいうところが
 「現代ヘブライ語辞典」なるものを発行しているようですが
  この辞書って、ご存知ですか? 良いようなら、値段も5500と
  わりと手ごろのほうですし、購入しようと思うのですが。。


安間兄
 ものすごく昔の書き込みへのレス。^^;

 「大日方」は確かに長野特有といっていい苗字で、ゆえに
  私は長野出身です。。私は生まれも育ちも松本ですが、父親の 
  実家は、長野市にあります。。
 しかし「大日方」と苗字で「長野出身」と、ぴんと来る辺り・・
  もしかしたら安間兄は、長野マニア?(違


 できれば5日以内に、マタイ5章読みに来ます。
  ではでは〜〜〜〜〜


 



 

下からの続き ↓

投稿日 9月17日(土)23時27分 投稿者 森脇章夫 [f074157.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

日本に入ってきたキリスト教も、そして聖書も残念な事に全てこの英語経由の物で、その悪い伝統に汚染されていてその汚染そのものに全く気づいていない人がほとんどなのは実に残念です。翻訳の原則である「原典からの直接翻訳をする」と言う当たり前の事が忘れられています。どんなに便利な道具(パソコンや言語データーベースなど)を次から次へと排出している英語には大きな魅力ですが、同時に翻訳の原則である「原典からの直接翻訳」と言う観点から考えて英語は一切介せずに聖書翻訳をする事が本当に大切かと想います。「重訳」は残念ながら原典の意向を大きく損なう危険が非常に大きいのです。
今回も、またお説教になってしまいました!! 笑!!
 



 

私は誰でしょう? わたしは?

投稿日 9月17日(土)23時26分 投稿者 森脇章夫 [f074157.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

 勿論、安間さまの下記タイトルの誤訳です。(邪訳かな!)文章の区切りを変に区切って解釈すると、「私は 誰!! 私は?」となりませんか? これを防止するには句読点や構文が大切になってきます。しかし、ギリシャ語には本来構文も句読点も無いのです。この事をお話ししたのはギリシャ語と英語の決定的な違いを明確にしたかったからです。この部分の70人訳は「εγω ειμι ο ων 」となっており「私が 私が存在し続けている 所の 私が存在している」(直訳)→翻訳は 「私が存在している所の者である」と言う意味にしか取れません。そうなんです、ギリシャ語には名詞の各変化や多様な前置詞に加えて動詞が主語を指定する(人称変化)があるため英語のような構文が不要なのです。英語は、構文で主語、述語、目的語、補語などの語順が必要ですが、ギリシャ語はたのヨーロッパ諸国語と同様、屈折(複雑な語尾変化)が在る為、語順も構文も不要です。どんな順番に単語を並べてもそのままで簡単に意味が取れるのです。だから殆ど解釈がいりません。
しかし、ギリシャ語を英語に翻訳するには、どんな構文にするのか判定する必要が生じます。その為に「構文解析」なる奇策が発生したのです。こんなとんでもない分析は数在るヨーロッパの様々な屈折(語尾変化)語の中で英語(遅れた未開の言語)だけの特徴です。英語にはこの屈折がないための翻訳上の特異な作業が必要なのです。勿論その原因は8世紀と12世紀のデーン人の進入とノルマン人の征服によるものです。他のヨーロッパ語と同様の屈折語であった古英語の未開化(語尾変化の未開人による抹殺)の結果が今日の近代英語だからです。そしてその劣等生を覆い隠し英語の優秀性を世界に宣伝する為に存在しているのがオックスフオードとか何とか言う元未開人の田舎学校なのです。大英帝国の野蛮性や未開性を隠蔽する為に帝国の威信を掛けて国家の総力を上げて翻訳されたものが1611年の KJV英語欽定訳です。そして、他の先進ヨローッパ諸国の上に冠たる優れた言語である英語を大英連邦の植民地とその指導者に知らしめる為に編纂されたのが A New English Dictionary (後にOEDと言われた10巻物+増補2巻 今此処に有ります。)です。
以下は上に続く↑
 



 

I am who I am.

投稿日 9月17日(土)13時26分 投稿者 安間 [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

いつもありがとうございます。出エジプト記3:14 I am who I am はヘブライ語で発音すると、アシェ イェへ アシェ 神様の語源ですか?と私の存じ上げている、共同訳に参加された先生に質問しましたら、まあ、勉強はともかくも、そこで福音を得られれば、細かい文法は気にしなくていいでしょうと言われた経験があります。森脇先生と同意見でした。木を見て森を見ない、昔学生運動をしていた人がよく言っていましたが、このごろは、聞かなくなりましたね、70年代に青春だったことが、ばればれ、ですか?
 



 

よかった!!

投稿日 9月17日(土)11時11分 投稿者 森脇章夫 [f074157.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

安間様の上達嬉しく想います。ギリシャ語はかのアレキサンダー大王が制覇した世界に広まりました。当時の人々は100% 文盲といって差し支えない状態です。特に新約聖書の記されたコイネー(共通)グリークは、本来「書かれること」を考慮されていない言語です。「庶民の会話向け」の言葉ですから、これを古典ギリシャ語などの「文語」と同様に文法に当てはめて、釈義することこそナンセンスなのです。(同じギリシャ語でも70人訳は少し違いますが。) 第一話し手(元漁師さんや取税人)がその様な文章を話す訓練を受けていません。彼らが不得手な外国語で話したものを、厳密な構文解析に当てはめる事こそ「非常識」なのです。(もちろん中には主の弟ユダやマルコ、ルカにパウロなどという語学に堪能な方も有りましたが!) 所詮「漁師ペテロさんやヨハネさん達が、自分の目で目撃した出来事をお話した物の記録」なのです。
今日の会話をよく見て頂くと分かる事ですが、一般市民が標準的に話している会話(日本語でも英語でもポルトガル語でも)これをテープにとってそのまま文章化し、それを文法的に精査する事が妥当かどうか考えてみてください。 (私の礼拝で話している説教も同様ですが?!!) 私達の普段の日常会話は目茶苦茶な文章構造で、その上に文章では考えられない言い回しをふんだんに活用しているのではないでしょうか?
聖書の言葉は文書による「 head to head 」 ではなく、喋り言葉による「heart to heart 」の記録なのです。(説明=当時は筆記者当人が書簡を携えて相手に出向き差出人の「喋り口調」そのままに手紙を朗読していました。)
余分なお説教になってしまいましたが、 笑!! そんなわけで 文法や 構文に気を取られているとせっかくのメッセージを見失う結果になりやすいと思います。 分からない事や難しい事は気にせずに飛ばして、どんどん進んでくださいね!
 



 

かなり進歩が

投稿日 9月17日(土)10時33分 投稿者 安間 [yahoobb220002127035.bbtec.net] 削除
 

名詞の活用、男性、女性,中性を覚えただけで分かるようになってきました
Σιμων Ιωαννου,φιλειs με;ελυπηθη ο Πετρos οτι ειπεν αυτω το τριτον, 少しずつ分かってきました。先生のおかげです!
 



 

ご親切痛く感謝!!

投稿日 9月17日(土)08時32分 投稿者 森脇章夫 [f074157.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

ICHITHUS様レスを有り難う御座います。せっかく投稿くださいました例の文なのですが、私の画面では文字が小さくなり、目も悪い私の力では虫眼鏡の補助手が必要でした。(文字表示大きくすれば良いのですが!) テキストエデイターやワードに張りつけてみましたが文字化けで良く読めませんでした。しかたなしに諦めて、投稿に気がついた24時のメールチエックから10分で直訳したものです。後日にICHITHUS様のレスを受け、翻訳風は構文など気にせずに1分程のフィーリングで(私もダイヤグラム構文解析をムーデイインストテュートの綾部ヘンリー師から学びました。しかし、やはりギリシャ語は正確に文章にするとその性質上意味が通じなくなるので直訳にしています。)翻訳風にしたものです。それより、残念なのは私からの優しいイソップ寓話のプレゼントをICHITHUSが解読下さるのを楽しみにお待ちしておりました、が一向に解読くださる気配がなく、パソコンでは殆どの単語にエラーが出て(いくつかの単語でφを全てψと表記しておきました。これはギリシャ語を学んだ人なら誰でも簡単に判別のつく表記です)お読みになれなかったものかとお察しいたします。こんな簡単な文章が解読出来なかったり、また手間取るようではギリシャ語うんぬんを論議する以前の問題かと思いますが如何でしょうか? イソップ寓話だけではなくオックスフオードのデーターベースに未採用のギリシャ神話なり、ピタゴラスやプラトンなども、ここで楽しくご一緒に学べますが如何がな物でしょうや!!
 



 

re:ずいぶんとややこしそうな主張ですね!

投稿日 9月16日(金)21時22分 投稿者 ICHITHUS [ppp1259.vm-west.my-users.ne.jp] 削除
 

久しぶりに覗いてみました。
森脇氏の「直訳」はもう少ししっかり単語を調べてみては!?
「直訳からすこし翻訳風」も構文がむちゃくちゃ...トホホ

 



 

ご安心下さい!

投稿日 9月16日(金)07時09分 投稿者 森脇章夫 [f074157.ppp.asahi-net.or.jp] 削除
 

お早うございます!パウロさんの符号はさほど難しくないかと思います。続く6課の形容詞の変化は名詞変化のおさらい、さらに7課冠詞の変化はそのだめ押し 8課の代名詞の変化は1人称 2人称以外は名詞変化そのもの となっています。全10課の内、第3課から第8課までいわば名詞の変化丈を学んでいるような物です。(他の文法書はこれかほぼ1課にまとめてしまっています。) そしてそれ以外の物は殆どが不規則変化です。特に良く使われる名詞、動詞、小辞などがその不規則変化なのです。
 規則のある部分はこの名詞変化だけと言っても過言ではありません。そしてここを抑える事で、辞書や参考書を調べる回数を減らしているのです。
 実は、不規則変化にも規則性が有りますが、どの文法書も扱っていません。要するに全て音便なのです。発音してみると不規則変化が実に文章(当時は文字で書く事は稀で話し言葉)にマッチしている事が分かります。
  結論をいえば、名詞変化をしっかり覚えたら約20個程在る前置詞を覚え、次は動詞の各時制の意味を理解したら(10課で全て完了)、後は「読んでいく事」がギリシャ語上達の筋道なのです。 
 


 

削除キー
発言順 101 - 150
最大記録件数 2000 Home


■削除は記事にチェックし最下に移りキーを入力し削除ボタンを押す.
■削除キーが合致しない記事は削除不能。管理者にメールを下さい.
■都合により管理者が削除する場合がありますのでご了承下さい.

 


 

MiniBBS v8.8 is Free.