衝撃の告発 ( 美しき誤訳の実態)


 川西聖書教会遠景 


誤訳その一 キリストの黄金律の誤訳。


邦訳ルカの福音書 6章 31節

新改訳・自分にしてもらいたいと願う通り、人にもそのようにしなさい。

新共同訳・人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

口語訳・人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。


上記は最も有名なキリスト教の教えです。しかし、これかがいずれも誤訳です。

原典を無視した邪訳である事をいったい何人のキリスト者が知っているでしょうか?


直訳はこうなります。

・そして 丁度同じように あなたが願い続けろ 

為に 彼らが行い続けている あなた方に その 人間らが、

あなた方は行い続けろ 彼らに 同じように。


翻訳するとこうなります。

あなた方はこう願い続けなさい。

人びとがあなたに行なおうとしている事を、

そのままあなたが彼らに行えるように。


違いがわかりますか? そうです出版されている一般の翻訳は、いずれも

「自分が人にしてもらいたい行為を、そのまま人に施す」様に訳されています。

わかるように人間が全て善人である事が当然であるかのような翻訳です。

しかし直訳は、「他人があなたに行おうとしている行為を

そのまま正当に行うその人にお返し出来るように神に願え」と言う意味です。

言い換えるならば、

「人にされた事をそのままお返し、あるいは仕返し出来るように神様に願え」と言う事です。

そうです。聖書の黄金律のギリシャ語の原文はどう見ても 

そう、正当な報復の論理です。

人間が全て悪人であるから、人に悪を行なうと、人が悪をお返ししてくれると警告しているのです。


あなたに悪を行う人には、同等の悪を報復し、あなたに哀れみと善を行う人に、

あなたは同様の哀れみと善をお返ししろと命じて居る事になります。

そう、それは神様ご自身が願っておられる事で もあります。

 そして神様ご自身も、そのようにすると旧約聖書の別の箇所に記しておられます。

オバデヤ15節 (新改訳)・あなたがしたように、あなたもされる。

あなたの報いは、あなたの頭上に帰る。


エステル記の出来事もその例証です。

この端的な、実現としてあのメドペルシャ属領時代に、捕囚となって帝国の首都スサに移住していたユダヤ民族に起きた出来事があげられるでしょう 。そう、エステル記に記されているユダヤ民族根絶やし政策を推進した宰相ハマンに対して王妃エステルとモルデカイ よって成された政変です。ハマンとその一味が推進した「ユダヤ民族抹殺計画」は、皮肉な事にこの政変によって「ハマン一族粛清」をもって報復されました。ハマンのその行いは神様の摂理によってハマン当人とその家族 、そしてそれに与した一味の頭上に、そのまま返されたのです。

神様のみこころは、まさしくこの主イエスキリストの言葉通り「人びとがあなたに成そうとしていることそのままに、彼らに行えるよう祈れ」という祈りの実現として神様のみこころが成就した事を聖書は記しているのです。

そう、神様の抑止力の戦略は核兵器や通常兵力による抑止力ではなく、神様の実力により、この黄金律に記されたる「等価報復原則」によって地上に犯罪や、侵略に加えて十戒に背くあらゆる人間の営みに適用されることが 、ここに明記されているのです。 そうです、盗んだ(or盗もうとして)人には 、盗まれる事。騙した人には、騙される事。これが神様の永遠不変の原則、これが必ず身の上に来る事を知らせる事が、聖書が全人類に布告され明示し、教えている犯罪抑止の原理なのです。


根本的重要問題

実は、この箇所の翻訳は聖書全体にかかわる根本的重要問題を秘めているのです。


説明しましょう。もし英訳や翻訳の様な一般的翻訳を受け入れるとどうなるのでしょうか?

それが聖書の主張だとすると考えてみてください。神様の律法がそして聖書の全体が人間の願い(意志)と合致していることが要請されるのではないですか。少なくとも、その様な前提が無ければ「人間の願う事を人に行 った結果、聖書の主張である義(或いは善)となりうる可能性はありません。

もし、その様な前提が認められるなら、聖書全体を否定する重大問題が発生します。もし、本当に「自分の願っている事を人に行う事」が正しいなら、人間は根本は堕落しておらず (少なくとも堕落は限定的且つ部分的で)、健全な神の義がその内心に健全にそして完全に存在していなければなりません。その前提が満足されて初めて、それを人に施す事が「最高善」となりうるのです。その前提は聖書全体の主張である「全的堕落」 を思う時、断じて容認出来るものではありません。

(私はウエストミンスター信仰基準に立っています。 原典を読む力の無かったころは、アルミニウス的聖書理解に甘んじていましたが、原文を学び読み進むに従って、ウエストミンスター信仰基準が限りなく原典に近い事を否応なしに教えられたからです。ということは「聖書原典に学び親しんだ者以外は是非の議論に加わる資格がない」という事になります。)

 もちろん、聖書のなかには「全的堕落を否定している様な記述」が在るように、思われている方がるでしょう。

  その様な方はきっとマタイ7章9、10節やその並行箇所のルカ11章11節を例証にされる事でしょう。しかし良く原文を見て頂きたいのです。マタイの方は9節10節とも「μη +直接法未来形」で構成されています。

その意味する所は「前提条件に依存する仮定で客観的否定ではなく主観的否定」です。

言うならば、息子が父親に「パン又魚」を求める限りにおいては、父親がその息子に「小石や蛇」を引き渡す事など考えられないでしょう。と言う意味になります。

分かる事ですが、これは「人間(特に信仰者)の善性を前提にしているのではなく、あくまでも罪性のひどさを前提にして語られている」 ことは明白です。ましてルカの11章11節においては人間の善 姓は全く否定されています。続く13節をご覧ください。そこには「あなた方は悪い者であっても」と明確に人間の根源的且つ本質的堕落」を明示されているではありませんか。より詳しく説明すると、このルカの11章13節においては「ει+ 現在分詞」で「あなた方は邪悪に所属しているのだから」と明確に前提が全人類及びこの話を聞いている12弟子たちを含めた人々、ひいては現在の全キリスト者を含めてキリストは「あなた方は悪い者(邪悪=原文πονηροs)で有り続けている」と主張されたのです。

結論は明確です。聖書原典はここでも人間(全人類)が堕落した罪人であり、そのうちに善は存在しないと言う事なのです。


これが聖書の教えの究極的要約です。

分かる事はキリスト教は愛の宗教ですが、それに優先する義と言う教えが在り、

常にその義の原則を愛の原則に優先して

あなたが適用するように 、 聖書は教えているのです。

そして、それこそが聖書の主張している神様の御心の原則なのです。

神様はあなたが思った事や願った事に対して、報いを下さるのではありません。

あなたが願ったり、思ったりした事ではなく、実際に行為をもって人に行った善なり悪を、

そのまま、全く同様に全ての人にお返しをするのが「義である神様」の意志(みこころ)なのです。


そんな事を聞くと、神様の愛はどうなるのかと思われる方があるかもしれません。

確かに、愛なる神様ですが、それに優る神の厳粛な 「義」が愛に優先されるのです。

そして、悪を行った人が悪を仕返しされて、自分が行った悪の被害者の苦しみを味わい。

以前に行った行為が悪であったと否応なしに認めさせられ、義なる神の前に罪を悔いて

初めて、この義の神の厳しさが「神の愛」を満足させている事を知るのです。


 神様の御心の、この原則に従って、あなた自身が神様に報復されるのです。

そして「人間も、神様のなされる事を経験して、神様の様に出来るようにと願いなさい」

とこの聖句は教えているのです。

但し、誤解のありませんように。あなたが正しい報復が出来るとは教えていません。

「そう出来るようあなたは願え」と命じているのです。すなわち人間には義の報復が出来ないから

出来るように願えと聖書は教えているのです。


結論です。聖書は、人間が皆善人で、自分を大切にしているからその思いで人に接すれば

すばらしい世界が出来るというヒューマニズムに立脚しているのでは決してありません。

聖書がこの言葉で明示しているのは、

人間が罪人であり、その罪人に対して、悪を行えばどんな恐ろしい刑罰 (あなたの行いが自分

の頭上に帰る)が在るのかを教え、自分の心にある恐ろしい悪を 認識し、それが行為となって

人を陥れる事が無いように取り締まり、全ての人が悪を避けて、善を行い 得るように願え

というのです。同時にその善行は人間には不可能な事なので、善に善を返し、

悪に正当な悪を返せるように、神様がして下さるよう、祈りなさいと教えているのです。


ところで、多くの翻訳はこの様な誤訳をしてしまったのですから、当然のこことしてそれに続く全ての文章も、

誤訳の連続となっています。最初のボタンを掛け間違えた為、続く全ての部文章を読み違え、

辻褄袷がなされてしまっているのです。 この文脈全体の問題点の概略を以下簡単に記します。


黄金律の文脈全体の誤訳 

まず最初に見るのはルカ6章31節の最初の方に在る「願っている」と訳されている言葉です。

多くの翻訳がこの語の分析でミスをしています。(ギリシャ語の動詞は構成が複雑で分析が不可欠です。)

★問題点その1★   命令法と直接法の語形問題...θελετε(セレーテ=願っている又は願え)の読み方です。


私はギリシャ語を読むのに、アナリテイカルやパソコンソフトを全く利用していませんが、おそらくそれらは 直接法、現在、能動態、2人称複数と分析しているかと思います。しかし、この語形は同時に、命令法と全く同形である事を見逃しておられる方が殆どです。 だから命令法ととるか直接法と取るかで意味が全く相違してしまうのです。

そしてその分別は訳者の技量に因る事です。

参考までに次の現在形の語形も存在する事をご存じない方が多いのには失望します。そう、この語形でこの点の誤解を避ける為にθελειτεとすると、こちらは明確に現在形となるのです。結論です。以上の理由からこの語は命令法、現在、能動態、2人称複数の可能性が限りなく高いのです。


θελειτεは新約聖書に使われていないのですが、わざわざ用例検索などかけなくとも、ギリシャ語動詞規則変化の基本原則でこちらが「直接法、現在、能動態、2人称複数」の基本形でθελετεは後代特にコイネー時代に主流となったその省略形であり本来は命令形の基本語形なのです。

★問題点その2★   文脈の同様の動詞も命令法と直接法の語形を取り違えている。

さて、この点を踏まえて、この文脈ルカ6章31節の前後をご覧頂きたいのです。、、、27節καλωs  ποιειτε、、、、、、28節 ευλογειτεのこれらの動詞の分析です。わざわざ調べなくとも見れば一目瞭然直接法2人称複数である事は自明です。なぜならετεではなくειτεになっているからです。 しかし、伝統的英語系の翻訳はこれを 何故か、私の知る限り全ていずれも命令法ととっています。それは基本的に語形論のから見て無理です。そして 28節のπρσευχεσθεも同様で命令法と直接法は同形です。そしてこちらも英訳は皆命令形ととっています。

素直に直接法現在形2人称複数に読めば良いのに、無理して全て逆に直接法を語形を無視して命令法に、そして普通に読めば命令法になる物を、わざわざ直接法に分析して翻訳しているのです。

(私の直訳もあまりの多数に圧倒されて釣られて迷いながら命令法にしてしまいました後日まとめて修正します。)
 

★問題点その3★   この文脈で「善を行え」等の「善」等と訳している言語は「善」ではなく「 よくもまあ」です。

誤訳の問題はそれだけではありません。27節で「あなたを憎む物に善(又は親切)を行え」としているこの「善または親切」と訳されている言葉の理解も非常に問題なのです。

 まず第一にこの言葉には「善や親切」と言う意味はありません。本来の意味は「外見は良い」と言う意味です。この文脈ではこの語本来の意味である否定的な意味で「よくもまあ」とするのが当然です。

 第二に、もし「善」と訳すには、当然 「αγαθοε」でなければ成りません。親切では「ηπιοε」です。そして、この善と言う語の副詞形は「αγαθωs」が別に在るのです。またもし普通に「正しい(良い)」を現すのは「δικαιοs」を当然使うはずです。

★問題点その4★    副詞 καλωs を名詞(καλοs)と曲解釈して原文を無視した翻訳です。

 その上に、このκαλωs (よくもまあ)を名詞として目的語として訳するには 名詞の対格、あるいは少なくとも形容詞(冠詞付き)でなければ、絶対にそうは訳せません。しかし、原文は「καλωs」なのです。明確に これは副詞です。副詞は動詞を修飾(制限)します。絶対に目的語等のように訳す事は無理です。したがって、当然この「καλωs」の訳し方は「よいだろう」又は「よくも」です。

★結論★

前述の「行え」としているποιειτεを命令法ではなく直接法現在形にしてこの部分を訳すと「あなた方は反対に敵を愛している。あな方が憎んでいる人々に(愛を)行っているのもいいだろう」...とすっかり翻訳が反転してしまいます。これは憎いローマ帝国やその手先で民族の裏切り者のバリサイ人律法学者達に税金を払い、恭順し何の報復もしないでいる当時のふがいないユダヤ民族の情けなさを批判したイエスキリストの言動と して訳すことが原典のギリシャ語を文字通りに訳した結果となります。

この部分全体にボタンのかけ違いがあり邪訳であると主張しているのは、その様な上記4つの理由によるのです。ギリシャ語のごく初歩的な問題で、決して難しい問題は此処には存在しません。この他にも様々な論拠は有りますが、権威ある多くのギリシャ語に関する文献や聖書翻訳が伝統的に何のためらいも無く 、どう見ても原文の素直な主張ではない方を支持しているのは明らかな問題です。そしてだれもかれもがどういう理由か、同じ間違いをし、原文が単純に示している主張を無視し、 聖書全体から見ても調和を著しく損なう特異な翻訳をわざわざ好き好んで選んでいるのは問題です。少なくとも原文の記述から見て問題が多く間違っていると思われる一方の理解だけを 多くの翻訳が採用しているのはまことに残念と言うほかありません。

 そして、明らかにギリシャ語の聖書原文に忠実に、そして素直に言っていると考えられる主張のほうが、同じ神様の霊感を受けた旧約聖書や新約聖書の 重要な主張箇所と、そのままで全く完全に美しく調和し、一致します。これは明確にイエスキリストが「律法の一点一角も落ちる事は無い」と言われた通り、ここでも旧約聖書の主張と100%同じ主張をされたと言う意味になります。

その方が旧約聖書とキリストの教えが完全に一致し、しかも単純で、

変な解釈も不要で、大変理解しやすいのではありませんか?

何を好き好んでキリストの教えを旧約聖書との連続性を真っ向から否定し、新約聖書の教えを旧約聖書の教えの上位に位置させ、斬新で新規性をもった現実離れした実行不可能理想主義的な翻訳に仕立てなければならないのか不可解です。それも、原典の主張を曲げてまでそうする必然性が何処に在るのでしょう。

少なくとも神様の側にはそのような必然性は無いように思います。そしてもちろん人間の側にも、また教会にも。 そしてこのような誤訳によってキリスト教が現実社会において果たすべき世の光り地の塩としての使命の実現を放棄し、あるいは混乱し現実世界に対する有用な発言も、また、一斉を風靡したヒューマニズムの隣人愛思想に影響されたこのような誤訳によって放棄する結果となっているのでは無いでしょうか?


翻訳聖書の問題点は この箇所だけではありません。


私の30年を超える牧師としてのささやかな学びの中だけで、翻訳上問題と思われる箇所は

新約聖書だけで1万6千箇所を 軽く超えているのです。もちろんそれは厖大な分量ですが、

新約聖書が2000年も前の古典であり、その分量がおそらく20万語を超える事を思うと、

問題箇所が新約聖書全体の僅かにその10パーセントに満たない

ことの方こそ驚きと考えるべきです。

そうです、これほど古代の文献の翻訳が90%以上という正確さでなされていたことこそが驚きで、「100%正しく訳している」などという主張は現実を無視した、妄信そのものと考え、

素直に聖書翻訳に多数の問題箇所が存在することを容認し、真摯な原典の研究が奨励されるべきかと思います。


その様なわけで、聖書翻訳上のボタンの掛け違いは、ここだけではありません。殆どのパウロ文書、特にローマ書の1章にある大きな間違いが、その手紙 の全体に悪影響し、誤訳の連鎖を引き起こしています。そしてヨハネやペテロの手紙にも同様の失態が処々に見られます。そして、その誤訳という負の連鎖は教派や時代を超えて連綿とキリスト教界を 席捲しています。


聖書は翻訳者や、牧師、神学者に任せていてはなりません。あなたがチエックしていなければ、雪印食品の牛乳や牛肉偽装事件、日本道路公団でなされた公共工事の不正談合などと 、全く同様の不正が大手を振って、歴史を縦断して世界中をまかり通っているのです。

キリスト教界にも、世と同じチエック体制が必要、不可欠なのです。 なぜなら救われている人も救われていな人も、神様を信じている人も信じてい無い人も、いずれも罪人である事に何一つ変わりは無い からです。


 ではキリスト者と非キリスト者の違いは何処に在るのでしょうか?その 違いは人間に見える形では存在しません。それは見えない神様の主権的選びに依存します。そしてその救いの印は、自分が救われるべき罪人である事を認識しているか、そしてキリストの十字架意外に自分が救われるべき術が全く無いという事実を 認めているか、あるいはか否かの違いにすぎません。 自己の深刻な罪性を受容しキリストの贖いに預かった赦されている罪人が、その赦しを拒否しているかの相違にすぎないのです。

そうそう、この「赦し」関しても日本語初め世界の殆どの翻訳が誤訳を普遍的に展開しています。ギリシャ語の聖書原典が用いている「赦し」又は「ゆるし」と訳される言語 αψιημι (απι+ιημι=離れ+ 行かせる)は日本語の「赦し」と言う意味はなく、借金などの負債を 「そのまま放置する」 と言う意味です。すなわち「罪が訴求されず看過される意味」なのです。したがって正しくは「赦された罪人」ナノではなく、「罪が放置されたままになっている罪人」に過ぎません。この訳語に関してだけでも翻訳聖書には百箇所を超える誤訳が存在します。

 聖書の言う救いとは救われた者の「罪の消滅」なのではなく、その「犯した罪の刑罰の停止」です。救いとは、神様の選びによって、聖書の言葉を通して、自分の罪を教えられた者が 、メシヤキリストの十字架の贖いを知り、キリストの十字架の死が自分の罪を原因として、またその結果として身代わり執行された刑罰であり、それを認めた物には 罪の刑罰が停止され、また放置された儘になり、もはやキリストの贖いの故にその刑罰が永遠に執行されることが無く(キリストの贖いの意義)、そのまま、何の善行も無しに、ただキリストの贖いに対する信仰によって、自分の罪とその刑罰である永遠の地獄の滅びから救われて、見る事の出来ない天国に入る選びに預かる ことを意味しているのです。


ところで、この誤訳を読まれたある方から手厳しいご批判を戴きました。なんでもその方はオックスフオード大学のデーターベースを使って、ヨセフスや70人訳聖書の翻訳を完了したという事です。それらのデーターベースがどれほどの信用力が在るのか私は全く存じませんが、引用されたギリシャ語のご発言にイソップ寓話から反論を申し上げました。しかし、残念な事にその方はオックスフオードのデーターベースにない文面であった為、全く歯が立たず全く解読がお出来にならなかったようです。

私がこんな事をここに引用したのはこの「誤訳」という私の主張は初級文法と上級文法並びに聖書釈義という学問を修め、それに従って、28年以上毎回の説教には必ず原典を確実にあたり、しかも、重要語句は単にレキシコン(オックスフオード等から出ている古語辞典)を当たるだけではなくギリシャ語のコンコルダンス(語句索引)を用いて、当該語句の聖書中の全用例を精査しそのレキシコンの分析の妥当性を評価し、浮上した問題点を集積した上で「 誤訳」と主張しています。

私の旧新約聖書の通読回数は軽く100回を超えています。説教準備を除いた毎朝の年間通読数は最も少ない年で年2回、多い年は軽く10回を超えました。ひいき目にみても平均年間聖書通読数は3回以上です。この通読を1972年の入信以来33年間一日も休むことなく毎朝、続けて参りました。

原典もろくに読めないし、聖書通読もした事の無いようないい加減な似非キリスト者や英語は理解出来てもギリシャ語そのものの原典を自力で読むスキルに欠ける方の反論はご遠慮下さるようお願いいたします。

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2018年06月23日