新約聖書 ヤコブ書 5章 16節の解説


関連聖句(直訳)

・彼は義であることは無い そして一つも無い  ローマ3章10節

・その義人は 信頼から出で 彼は確かに生きる ガラテヤ3章11節  

・そして その 私の 義人は 信頼から出て 彼は確かに生きる ヘブル10章38節 

・  彼の 信頼の中に その 義(人?) は 生きる   ハバクク2章4節 


・「義人の祈りは聞かれる」と考えられる有名な聖書個所。しかし、原文には

そのような意味はない。第一に「義人」その者は存在しないと聖書は教える。

(上記ローマ3章10節) これを信仰上の義人と理解する向きもあるがこの様な

場合にギリシャ語原典が用いている言葉には必ずロギゾマイ(勘定する)と言う

言葉が合わせて使われている。この「義と認められる」と訳されるギリシャ語の

「ロギゾマイ」は会計用語で勘定と訳される言葉で、その正確な意味は「実際は

そうではないものを理由があって義と見なす」という意味である。従って「信仰の

義人」とは文字通りの義人ではなく「今も罪人であるが義人と見なす」と言う意味。

従って義人の祈りが聞かれたとしても実際の義人は地上には存在しないのだから

この聖書の言葉の意味は「祈りが聞かれる人は無い」と言うことになる。

   従ってこのような翻訳は基本的に問題となる。


  その上にヤコブ5章16節の「義(人)」の原文にはギリシャ語のデイカイオス(義)

の属格単数が使われている。そして重要なのは冠詞が無い点である。冠詞が有

れば無理をすれば「義人」と取ることも可能ではある。しかし無い以上本来の義

の意味すること。すなわち神様の意思の示された聖書の基準としての御心かなう

「義」という意味が正当だ。この義に無理をして「人」という言葉を添加することに

は無意味となる。


 このような無理な翻訳が喜ばれる背景

・いわゆる監督政治を取り「きよめ」を強調する神学は元々英国に発生した。

これは、英国国教会がいわゆるカトリックの教会組織を全く改めないで、カルバ

ンに代表される改革派神学だけを導入したことに端を発する。

 この教会のあり方は、その元となった いわゆるカトリック教会と同じ教職者中心

の教会形成が強い。そしてカルバン派に代表される宗教改革の神学は信徒と教

職者を同等化するプロテスタント神学の根本と相いれない。監督派はその様な教

職者を一般信徒と区別する教会観が必要となる。そのため聖書翻訳に当たっても

教職者と信徒の差別化をはかる傾向がある。このような聖職者は一般信徒より

聖化されている必要性が聖書に求められ、その願望が聖書の翻訳に「義人」とそう

でないキリスト者が存在するかのような表現を生み出しているのではないだろうか。

   教職者を本物のキリスト者または聖化された高等なキリスト者と奉る傾向はどの

時代もにも強く存在するが聖書は、神様の前に教職者は同じ行為にたいして

より大きい刑罰が課せられることを主張しているにすぎない。(ヤコブ3章1節私訳)、

現実の聖書翻訳者にも常にその様なテンションがあったと思われる。その結果、

この様な聖書個所は多くの場合翻訳者が無意識の内に持っている彼自身の「牧師

は信徒より聖く特別の存在である」と言う神学によって無意識の内に影響されてあた

かも義人が存在するかのような翻訳が生れたものと思われる。


 聖書ギリシャ語原文の正しい意味 (ヤコブ書5章16節)

・この個所で言われていることは、祈る人物の資質ではなく、祈る内容の資質が問題

とされている。すなわち祈る人物のいかんにかかわらず、祈る内容が「義」すなわち

聖書に教えられた明白な神様の御心(意思)に合致しているならば、その祈りは

祈る人の資質に左右されず作用(神様が受け入れられて実現する)すると言うのが

本節の主張である。

  それゆえ、続く著者(主イエスの弟ヤコブ)の説明に、エリヤという旧約聖書の

預言者が「人」が冠詞も無く用いられておりあたかも「唯の人」として、引用されて

いることにも現れている。

   そうして雨が降らないように祈った例は、神様が偶像礼拝に落ちたイスラエル

国家とその宗教的指導者達への裁きとして申命記の11章17節などに記された

祝福とのろいの契約に基づく、神様の意に適ったこと「雨を止める」を祈ったので

その祈りが作用したことを聖書は教えている。


  残念なことに、今日の多くの聖書の日本語への翻訳はこれと同様な「教職者

を聖職者とし特別な神様の人」であってほしいというテンションが色濃く影響して

いる。それゆえ、神学的に中立な(教職者でない)立場の翻訳者による、聖書翻訳

が必要とされる。そのために自分の神学的影響を自覚した上で聖書背景や語学

に通じた、一般信徒の立場に立った原典に忠実な翻訳が必要とされる。

     ある翻訳には、残念な事に翻訳された聖書のほとんどの節にこのようなテン

ションが作用した形跡が見られるのはまことに残念なことと言わなければならない。


2005年01月11日

 

 

 

k s;h/