ガラテヤ2章15節の誤訳 

ギリシャ語の原文は以下です。

上は単語の直訳。(○内の数字は原文に記されている順番)

下はそれぞれの語が持っている文法の特質(品詞、格、数 等)

上記の聖書の言葉をダイヤグラムにしてみます。

ダイヤグラムとは英語を話す人がギリシャ語を理解する為に語順を入れ換えて、英語の五文形のどれかに当てはめる為に考え出された図式です。語形を持たない言語である日本語を話す人には全く無用です。何故ならギリシャ語からそのまま日本語に置き換えてても日本語として理解可能だからです。しかし、英語を話す人々にはこの文型が決まらないと理解できません。


  これを翻訳にしてみます。

「私たちは本性にユダヤ人らで、そして罪人らです。異邦人から出ていません。」


所が一般の翻訳は英語を含めて全て以下の様になっています。


新共訳・わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

 口訳・わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、

 新改・わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。

 WEBWe, being Jews by nature, and not Gentile sinners,


上記の翻訳はいずれも誤訳と言わなければ成りません。何故なら、「罪人」と言うギリシャ語は男性主格複数でありこの文章の中で性と数そして格も一致する=ギリシャ語では修飾関係あるいは動詞エイミ=be動詞で目的語となり得る語も性と数と主格で在る事が条件ですから。当然の事として「罪人ら」が修飾あるいは同等 (省略されているエイミ動詞の目的語は主格を取る)==なのは 「ユダヤ人ら」以外に存在しえないからです。


注:ギリシャ語は英語と根本的に異なり語順や文型はありません。ギリシャ語は思いついた単語を強調したい順に羅列するだけで意味が通じるのです。それは名詞=性数格によって主語、目的語、修飾語、補語の位置が明確で、形容詞も性数格でどの語を 修飾しているか明白で、しかも動詞にも人称と単数、複数があり、どの名詞を主語としているかは自明だからです。その意味で日本語の様に主語を最後に持って来たり、また主動詞や副動詞に加えて分詞や不定詞が同じ文中に複雑に入り込んでも、それぞれの主語や目的語が全く語順に無関係に特定されるからです。英語圏の人々が 「It 's Greek to me.=それは私にとってギリシャ語です。」が「チンプンカンプンです。」と言う日本語の意味を持つのはこんな所にも原因があります。


分かりやすいお話です。どこをどうひねって、どんなにギリシャ語の文法をねじっても、このギリシャ語の原文から「異邦人(だけ)が罪人」 であるかの様な翻訳文にすることはあり得ないのです。 まして「ユダヤ人の罪と異邦人の罪が異質である」かの様な一般の英語系の翻訳は基本的な神学的素養に欠ける人によって成された翻訳のように思われます。

  そして前後関係から見ても、ユダヤ人が罪人であることは自明で。続く16節で「私たち(ユダヤ人)もキリストを信じて義とされた。」と いうことになり異邦人もユダヤ人もイエスキリストに対する信頼(信仰)以外に義とされる術の無い事が述べられるのです。この様に「ユダヤ人が罪人である」と原典どうりに翻訳すれば、とっても分かりやすく なりしかも前後の文脈が繋がります。

 そのように正しく翻訳されればこの聖書箇所と、福音書におけるイエスキリストの主張やパウロの他の書簡(特にローマ人への手紙の1〜3章=1章→ユダヤ人の罪、2章→異邦人の罪、3章→全人類の罪)と も合致するのです。

  そして、反対に、 もしもここを一般の英語系の翻訳(=いずれも歴史的に英オックスフオード大学の影響下に神学者を育てている教会や大学や関連する英語圏の諸大学、諸教会の人々 が翻訳 に加担している。少なくともオックスフオード大学の出版する英語で記された間違いの多い辞書や文法書の記述に依存して翻訳されている。)の様に、ユダヤ人が「異邦人と異なる」あるいは「罪人でない」とする事には旧約聖書の記述や新約聖書とどの教派の神学の主張とも不一致、または不整合の問題を引き起こすのです。


  何故こんな誤訳が生じたのかはもう皆様お分かりでしょう。そう、英語は語順や構文があるためうっかり近い単語と近い単語を関連づけてしまう 傾向があるからなのです。原文で一番最後の「罪人ら」の直前に在る「異邦人(複数属格)」にうっかり「罪人(複数主格)」を合わせてしまった から間違って訳出されてしまったのです。

    そして、もし一般の英訳や翻訳の様に訳出するには「罪人ら」が複数主格でなく、複数属格であれば直前の異邦人(複素数属格)を修飾していると理解することは可能であったでしょう。しかし 、ギリシヤ語の「罪人」は男性主格複数なのです。 ですからやはり修飾関係あるいは述語的用法の繋がりの在る語としては自然には「ユダヤ人ら」が妥当です。、というわけでこの文章の上記箇所の原文をギリシャ語風に素直に読めば、

「私たちユダヤ人は生まれながらの罪人で、異邦人から少しも出て居ません。」と訳出されるのが妥当です。


そして、このような翻訳が出来てしまう背景にはもう一つ神学的な問題が秘められています。それは、クリスチャンは聖化されていて非キリスト教徒の罪人とは異なるとする特定の神学の立場が影響しています。

    聖書が言っている「救い」は「罪からの救い」で救われた人は救われて後も「救われた罪人」である事に変わりは無いのです。

  ウエストミンスター信仰告白の 14章2節にある通り、救われて後も常に罪人であり続けるのです。


ウエストミンスター信仰告白14章2節

 この聖化は、全人に行きわたるけれども、この世にある間は未完成である。どの部分にもなお腐敗の残部が残っている。そこから、絶え間のない和解できぬ戦いが生じ、肉の欲がみたまに反し、みたまもまた肉に反するのである。


したがってこの誤訳の背景には英語と言う言語を経由し、あるいはその影響を受けて翻訳されている上、英国から生じた、ウエスレアン教会のホーリネス神学がこのような間違った翻訳をさせる要因となっている事 が分かるのです。


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2007年02月10日